果たして彼女はそこにいた。
海岸に着く頃には日は遠く沈んでいた。天上にはその代わりに、浜に立つ一人の少女を照らし出すかのように、満月が優しく輝いていた。
少女はこちらに背を向けていた。その視線はきっと海の向こう側を捉えているのだろう。
ざあざあというゆったりとした潮鳴りだけが辺りに響く中、その少女はゆっくりとこちらに振り向くと、微笑とも悲しみとも取れる表情を浮かべて近づいてきた。
「……来ていただけたんですね」
俺のところまであと数歩というところで少女は立ち止まり、胸の前で腕を組んだ。
「こんなところにお呼びだてして、申し訳ありません」
「いや、別にいいが」
そんなことより貴様には謝るべきことが山ほどある。と続けようと思ったが、彼女の雰囲気が俺にそれをさせなかった。数ヶ月見ない間に、元々儚げだった彼女の立ち居住まいが、更にか弱くなっている――そう、吹けば飛んでしまいそうなぐらい――ような印象を俺に抱かせたのだ。
「今日は、とても話したいことがあるんです。わたしの話を聞いていただけませんか?」
「……む」
正直問いただしたいことは山ほどあるのだが、今はそれを聞くべき時ではないようだ。彼女が自分から話をすることなど、滅多にない。何か重大なことなのだろう。
彼女は俺の態度を了承と受け取ったのか、いったん目を閉じると話を紡ぎだした。
「遠い過去の話です。わたしには、好きな人がいました。結婚を約束した人でした」
そこでいったん切ると、アンは海を見つめた。
「その人に求婚されたわたしは、それを受け入れてあの方の故郷に向かい、二人で船旅をしました」
視線を落とす。
「でも――その船を、嵐が襲いました。あの人は海に投げ出され、救助もされませんでした……」
その時の思いを反芻するかのように、アンは黙って目を閉じた。その発言に奇妙な違和感を感じながらも、俺は聞き続ける。
「その人を助けられなかったわたしは我を忘れる程に悲しみ、時に取り残されるほど泣き続けていました……」
そして顔を上げると、俺の方を見つめた。
「泣き続けて……何日、何ヶ月、何年経ったのかも、自分がどこにいるのか、自分が一体何者なのかすらもわからなくなったころ……わたしの前に、あなたが現れました。覚えていますか? あなたがドルファンに初めて来た時のことを」
そう言われて、なんとなく頭をもやもやした思いが巡った。確か……暴漢をぶっ飛ばした……だけだったような。
そのことを告げると、アンはこくりと頷き話を続けた。
「はい。それを見たとき……わたしは目を疑いました。そっくり同じだったんです。わたしがあの方に助けていただいた状況と、そして、あの方と、あなた自身の容姿も。そのすぐ後に、友達になっていただけると聞いた時、わたしはとても感激でした。まるで止まった時が再び動き出したかのようでした」
そこで再び俺の方に視線を返し、頭をぺこんと下げた。
「ごめんなさい、とても失礼な話ですね……あなたを他の誰かと重ね合わせるなんて」
「そうだな」
素直な思いを口にする。
アンは申し訳なさそうにまた頭を下げたが、今更そんなことはどうでもいいので、俺は続きを促した。
「付き合い始めて最初は、あの人とあなたの違いにとまどいました。勝手な話ですよね。ひとりで人物像を勝手に重ね合わせて、ひとりで混乱しているんですから」
もう一度、謝るかのよう頭を下げる。そのままアンは次の句を告げた。
「でも……そんな中でも、わたしは間違いなく幸せでした。たとえ最初は勘違いだったとしても……このドルファンで、あなたの傍で三年間を過ごしている間に、わたしは知りました」
アンははっきりとした笑みを顔に浮かべ、俺に語りかけてくる。
「一見ぶっきらぼうでも、それだけが真実ではないことを。誰が気付かなくとも、わたしにはわかります。あなたの心の奥底に、とても優しい生命の光が瞬いていることが」
言い切るとアンは迷いを振り払ったかのように顔を上げた。
瞳に淀みはなく、表情には一端の戸惑いすらない。
しかし俺にはその様子が、崖の上に立つ人間が見せる最後の覚悟のように見えた。
「この想いが決して偽りではないことを、わたしは知っています。だから勇気を出して言います」
アンは息を吸い込むと、まるで自分の感情の全てをぶつけてくるかのように視線をこちらに真っ直ぐ向け、その言葉を口に出した。
「――あなたを愛しています。あなたの全てを、心より想っています」
彼女の宣言から十数秒。その間、俺は沈黙を保っていた。
その間に何かを感じ取ったのか、アンは寂しそうに笑った。
「答えは、いいです。わかってますから」
「……?」
「あなたにとって、わたしは特別な存在ではないことなんて。話を聞いて頂いて、ありがとうございました。それだけで……わたしは、幸せです」
健気に笑う。と、見える。言いたいことは言い切ったという感じだ。
しかしそんな自己完結を許す俺様ではない。
「足りん」
「……え?」
「俺様が聞きたいのは、貴様の目的が何なのか、そしてこの数ヶ月間、なぜ姿を見せなかったのか、だ。あとは単なるおまけに過ぎん」
俺の問いにアンは一瞬目を見開いて、びっくりしたような仕草を見せた。
そして視線を落とすと、落ち着いた口調で話し出した。
「……ごめんなさい。さっき、話していない部分がありました」
「言え」
「ずっと考えていました。この三年間のあいだ、ずっと」
アンがそう言ったとき、俺は辺りに月明かりとはまた違う白い光が取り巻いていることに気が付いた。
それは意識の奥深くまで自然に入り込んでくるかのような柔和な波長だった。
俺はこの光を知っている。いつか見た淡い発光する霧だ。
それはこの世界ではなく、夢の世界の霧だった。
「はじめの一年は、あなたのことだけを考えていました。次の一年は、あなたと、あなたの周りの方々のことを考えていました。そして今年は、わたしとあなたのことを、ずっと考えてきました」
光の白みが、アンの周りに集まってきた。
「そして気付いたんです。いいえ、本当はずっと覚えていたのに、目を背けていただけなんです。わたしには未来が――いえ、この三年間だってきっと、本当はあってはいけないもので、実際にわたしに残された時間は、もっと僅かなものだったのに」
「……」
「この三年間はきっと、神さまがくれた、とてもとても長い慈悲の時間なんです。ですから――あ!?」
胸の前で組まれたアンの腕を手に取り、言葉を遮る。
彼女の言葉は抽象的で多分に詩的要素を含んでおり、それが俺の気に障った。
神様? はん。原因のない結果など存在しないし、原因に神を求めるなど俺様の主義に真っ向から刃向かう主張だ。
俺は腕を掴んだまま、アンに更に一歩近寄った。
「だからなんだ。貴様は何一つ肝心な事を喋っちゃいない」
「……え」
全てを遮って断定を下す。
この砂浜に呼び出された時から、いやそれ以前から推測はついていた。
彼女が普通の人間ではないことなど、とっくの昔に知っていた筈なのだ、俺は。
「それで結局、貴様はどうしたいんだ。俺が好きだ、それだけか」
これまで保たれていたアンの平静が、一気に崩れた。瞳に狼狽の色が見て取れる。
腰が引けている。体が怯えている。唇が震えている。つまり、何か隠し事をしているのだ。
「それで諦めるのか、もう満足したのか」
「あ……えっ……」
「余計な感情も妥協も全部捨てろ。それで結局何を望むのだ、貴様は」
「え、あの……わたしはっ……」
アンの右手からは、体の震えと同調するかのように光の奔流が流れ出でて、輸血管を通すかのように俺の体へと吸い込まれていっていた。その源は――あれは――確か――
――――心地よい。
全身の抵抗が消え去る。
綿の雲で身を撫でられるような感触だ。
光の正体を推測すると同時に、アンに先を促す。
「……あの……あの、でも……!」
「あのもでもも何もない。俺の質問に答えろ」
躊躇の要因が先ほどの話にあることに疑いは無かった。
自己の消滅。自意識の離散。恐れと恐怖、適わぬ願い。
どれもが最悪に気に入らない。俺自身の尊厳に賭けて、最初から諦めて逃げ場所を探すなど、選択肢に含めてはならんのだ。あってはならないのだ。
「時間が無いんだろう、戯言はいらん。さっさと本心を言わんか!」
「わ、わ、わたし――は――!」
アンの目尻に涙が浮かび、頂点に達した感情の高ぶりが表に出ようとしていた。涙の粒は頬を伝い、砂浜に落ちてシャボン玉のように弾けて散っていく。その涙の粒の一つ一つに、彼女の意思が込められているかのような錯覚に見舞われた。
いや、違う。錯覚などではない。いまや俺は確信していた。
事実あの涙にこそ、彼女の命そのものが宿っているのだ。
更に一歩踏み込む。もう俺とアンの距離は胸が触れ合うほどだ。
「わた――し――!」
涙を流しながらこちらを見上げるアン。
打ち寄せる波とともにその姿が儚く揺らいでいくのを目にして、俺は一際強く叫んだ。
もう――時間が無い!
「言え!」
――時が停まる。世界が停滞する。
月と光と波の音が消え去り、虚無の空間にただ彼女の意思だけが存在した。
「わたしは!」
アンは震える唇で言葉を紡ぎ出す。懺悔をするかのように俺を見上げ、瞳に涙を湛えながら。
その半ば慟哭に近い魂の叫びは、泣きじゃくって詰まっていたにも関わらず、それまでに聞いたどんな言葉よりも深く俺の心を抉った。
「あなたと、生きたい――!」
ああ――その言葉を聞きたかった。
「そうだ、忘れるな」
「あ――」
掠れる声を聞き遂げた後、アンの手の甲をしっかりと握り、空に掲げる。
掲げたアンの手の平には、見覚えのある綴りのペン字が月光を受けて――いや、違う。自ら銀色の光を発していた。光が肌を通して流れ込んでくると、途端に暖かい熱が体の内側に湧き、俺に活力を与えてくれた。
――その光を見るごとに俺は、彼女を救いたいという魂の器を根源から突き動かされるかのような衝動に駆られていた。それがどこから来た衝動なのか、俺はようやく察しがついた。
やはり神様などではない。わかりきったことじゃないか。こんな現象を起こし得る人物は、俺が知る限りたったの二人しかいないのだ。
一人はアン自身、そしてもう一人は……
「――」
「信じろ。俺様は無敵だ」
断言して、瞳に俺だけを捉えとめどめない涙で頬を濡らすアンを抱き寄せる。
腕の中のアンは、しかし最早感触すら危うかった。肉を持った体ではなくもやもやとした霧を抱いているかのようで、現実感が薄れきっていた。
アンが普通の人間ではなくいずれ消滅してしまうことを、きっと最初から知っていたのだ、彼女は。
だから夢などという回りくどい手段を取り、俺様に想いを託したのだろう。
――そうだ。世界が彼女の存在を認めないなら。俺達が世界を作り上げるのだ。
他の誰ならいざ知らず、俺達にならそれが可能な筈だったから。
なあ――
「そうだろ、ピコ!」
その名を叫んだ瞬間、周りを包んでいた白みが光に変わった。
視界を彩る物体全てが金色の閃光へと変貌し、その中で小さな人影だけが宙に浮かんでいた。
To Be Continued
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