……はじめはただの気まぐれだったんだ。彼女と初めて会った、その時は。

 ひと目で気付いた、アンは人間じゃないって。
 少なくとも、生きてる人間じゃない。
 なぜってアンからは生命の対流が全く感じられなかったのだ。オレンジとグリーンの水流がうずを巻いて互いの根っこを掴みあっていて、それ以外との交流がまるでなかった。

 え、何言ってるのかさっぱりだって? あたしにはこういう風に見えるんだよ。なんてったって妖精だから。まー自称だけど。他に妖精なんて見たことないしね。

 とにかくキミにもわかりやすく言うと、彼女は一人で完結していた。世界から隔絶された七色にきらめくシャボン玉の中で、ひとり寂しく散っていこうとしていたんだ。
 埠頭で見たその姿に、あたしはちょっと同情心が湧いてきていた。
 なにしろ彼女はあたしと同じだったんだ。違いは、あたしが外からっていうかキミから力を貰っているってことぐらい。

 そこで考えた。アンをどうにかできないかなって。そりゃもーうんうん唸って考えたよ。
 で、決めた。キミにがんばって貰おうと。
 キミの魂が生み出す命の四分の一ぐらいを、アンに直接繋げた。
 配管工事みたいだけど、とにかくやった。やれる自信もあった。なにしろあたしは妖精だ。普通の人間じゃ触れないアレやソレだってお手の物だ。俗に言う幽霊みたいに、他の人に見られずに何かを動かしたりだってできる。それで随分とキミに貢献できたんじゃないかな、と自慢したいよ。それが主に犯罪に手を貸すようなことだとしてもね。

 ま、とにかくこの作業はかんたんに成功した。幸い丁度いい受け入れ口があった。数ヶ月もすれば完全に消滅してしまいそうだったアンは、おかげでもうしばらく保てそうになった。
 とはいっても適当にやった作業だ、永久に続くってわけでもなかった。それにこの方法は、言っちゃ悪いけど寄生とかそんな感じの方法だから、キミにとっては不便を感じることもあっただろう。具体的に言えば大幅に力が落ちるとか、病気への抵抗力が薄くなるとか。でもまー今更気にしないでね。代わりに何度か死にかけても助けてあげたんだから。

 あたしは実際のところ、こんな無理なことは長くは続かないだろうと思っていたし、また続ける気もなかった。
 結局のところアンはキミへの想いだけを糧に存在し続けていたんだ。あたかもあたしがそうであったように。
 どうせ一年も経てば、彼女はキミに幻滅して消え去るだろうと思っていた。
 ……けど。

『あなたと、生きたい――!』

 アンは信じ続けた。あやふやな彼女が二年半以上も存在し続けられたのは、ひとえにそのおかげだろう。
 それにもまして驚いたのは、キミがアンに興味を抱いたことだった。
 恋心や情念からである筈もない。キミがその類の人間らしさを持ちあわせているわけがないことは、あたしが一番よく知っていた。
 単純な支配欲でもない。それならとっくにアンはどうにかされていた筈なんだ。
 そしてあたしは気付いた。
 アンが存在を保つためにキミを必要としたように、キミもまたアンを必要としていたんだ。なにものにも揺るがされない確固たる信念こそが、キミにとって一番大切なものだった。それをアンは最もわかりやすい形で持っていたんだろう。
 ――だから。

 これは、あたしの責任だ。義務と言い換えてもいいと思う。

 彼女は消えてはいけない。
 ただの気まぐれの産物だったとしても、今やアンはキミにとってなくてはならない存在になっていた。
 アンは生き長らえさせなければならないんだ。
 その行為が果てしなくいびつで道理に反したことなのは承知していたけど、それを言ったらあたしの存在自体が道理に真っ向から刃向かっているのだ。今更躊躇することなんて何もないよね?

 ……でも、実際問題として、それは可能なことなんだろうか。
 こう問えば、キミならきっと、

『俺様は無敵だ』

 ――そう言うだろう。
 この世にどうにもならないことなんて、何一つない。
 その無謀極まりない信念を実現するために、あたしはキミをこれまで出来る限りサポートしてきたつもりだ。
 けど今度ばかりはちょっときつい。つい半年前、二回もキミに命を返したばかりだ。その影響がアンにまで及んで、こんなことになってしまったんだろう。
 これ以上なにか特別なことをしてあげるだけの力が、あたしに残っているんだろうか。

 ……そんな疑問を持ったところで、とにかくやるしかないんだけどね。
 これまでと同じだ。不安も疑問も全て振り払おう。あたしは、ただ信じるだけだ。
 基本は三年前と同じ。
 単に、キミの魂から管を引っ張ってきて、アンに繋げるだけ。

「さ、いくよ――」

 あたしはなけなしの勇気を振り絞るため、不可能を可能にする魔法の言霊を口にする。
 遠い遠い昔、初めて心が芽生えたときから、その三文字の呪文だけがあたしの記憶に深く刻み込まれていて、ずっと心のより所であり続けていた。
 その愛しい響きは、少なくともあたしにとっては正真正銘、奇跡の呪文なのだ。
 そうだよね――

「――アクト」

 そう、キミの名前だ。この世で一番近しく愛しい人、アクト。鏡合わせの自分自身。
 キミのためならあたしはなんだってやってみせよう――


 世界の裏側で、七色に輝く球が無限とも言えるほど湧き出でて、溢れて殻を突き破ってこちら側に降りてくる。球の一つから、まるで毛糸の様にするすると光のロープが伸びてアンを縛り、きつく巻き上げたかと思うと輝く粒子にばらけ、そのきらめきでアンの体が象られていく。
 視線を足元に移すと、輝く金糸が織り成す網が、大気中に点在する命の火を絡め取り、十分に捉えるとふわりと浮かんで、象られた体にクモの巣のようにくっついて沈み込んでいった。網は合金を鍛えるかのごとく、幾重にも折り重なってひとつになり、物理的な強度と共に根源的な生命の脈動が強化されていく。
 見上げると光。無数の球が融合した仮初の太陽から焼き尽くさんばかりに光が注ぎ込まれ、生まれたばかりの命を照らし祝福する。内輪に薄い瑠璃色の膜を張ったいくつもの光輪が、アンの頭のてっぺんから足の先までを通り抜ける度に、不確定だった輪郭が固定され、その身は現実感を取り戻していく。

 そんな運動が一瞬のうちに何千回と繰り返されて――

 そして、アンはそこにいた。眩しく輝く、四枚の翼を背中にして。


 ――同時にあたしは痛みを感じた。背中が真ん中から左右に引っ張られるような鈍痛。
 振り向いて見てみると、驚いたことにあたしの羽が根元からすっぽりと抜け落ちていた。代わりにアンの背中に翼がはためいていた。

 翼は存在を誇示するかのごとく二、三度ゆっくりと、しかし大きくはばたいた。はばたきを終えると周囲の空間に融けこんでいくかのように翼の色が薄れていく。まるで役目は果たし終えたと言わんばかりに。それと反比例するように、揺らいでいたアンの影がはっきりと砂浜に映し出されるようになった。
 翼が完全に消え去ると、アンの今まで閉じていたまぶたが開き、まばたきをした。
 その視線はあたしをまっすぐ捉えていた。その眼の輝きは生命の瞬きを確かに感じさせた。

 そしてあたしは理解した。この自慢の羽はきっと、幻想から現実へと飛翔するための力翼だった。
 その証拠にほら、

 遠のいていく。無限に深い井戸を落ちていくかのように、すぐそばにいた筈のアンの姿がぐんぐん遠ざかっていく。

 あたしが、落ちていってる――

 広がっていた世界が閉じていく。黒い円が狭まっていき、あたしの世界を侵食していく。心が順々に剥ぎ取られて、ぜんぶが闇の中に眠り落ちていく。

 ――ああ、やっぱりムリがきた――


 ……あたしがいなくなっても、キミはうまくやれるだろうか?
 ……きっとやれるだろう。だってキミにはアンがいる。
 外の世界に根拠を見出したのなら、内の世界に目を向ける必要はない。
 だからあたしはもう、いらないんだ。

「……ん……」

 目がかすむ。暗闇さえもぼやけていく。

 ……キミにとって、あたしはどんな存在だっただろう?
 うっとおしい引っ付き虫? だとしたらちょっと悲しいな。
 信頼の置けるパートナー? そう思ってくれてたら嬉しいよ。
 恋人? それだけは絶対に無いよね。

 けれど、例え今までどんな風に思われていたとしても、最後の最後にキミはあたしを必要としてくれた。あたしの名前、キミがくれたあたしだけの名前を呼んでくれた。それで十分なのだ。

「……っ……う……」

 ……うん、それで十分。
 好きな人が、例え一瞬でも必要としてくれる。これ以上の幸福なんてどこにもない。
 これ以上を求めるなんて、贅沢すぎるよ。だから、だからだめだ。
 いけないんだ。こんな――

「……だ……め…………」

 ――こんな涙なんか、流しちゃ――いけない――ん――だ――


 ――――。
 
 
 ――。



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