『よろしいです。今後も、大事になされますよう』
瓢箪の点検に来た天志教の使者を返して、信玄は一人、天守閣最上棟の部屋に座り込んでいた。その腕の中に、一つの瓢箪を抱えている。
JAPANの大名の中でも、幾つかの名門だけが保管の義務を負っている謎の瓢箪。先代から受け継いだそれは、いま、信玄の手元にあった。
「ふうん」
ぷらぷらと揺すってみるも、妙な様子はない。
そもそも感触からして、中身が詰まっていないように思える。
なぜ天志教はこんなものを、まるで御神体のように扱っているのか。信玄にはまるで見当が付かなかった。
「……ま、いっか」
世の中、理解できないこともあるのだろう。他人から見れば、きっと自分もそのうちの一人だ。
信玄は考えを打ち切ると、瓢箪を元の場所へとしまうべく、畳をずらそうとした。
その時。
ごとりと、信玄の背後で、物音がした。
夕飯を終えたランスは、部屋でシィルとだべっていた。
「んーー。最近、なんか暇だなあ」
「はい、いいことです」
シィルにとっては喜ばしいことに、武田家の軍事は現在小休止状態となっていた。捕らえた早雲を材料とし、北条家、および早雲自身との交渉を続けているためだ。
外交戦は透琳と義風、それに信玄の十八番であり、要するにランスの出る幕はない。
というわけで、JAPAN地図を広げ、今後の予定を考えるランスである。
「うーむ。謙信ちゃんと香ちゃんは、じっくりと落とすからいいとして……よし。次はいよいよ織田の香ちゃんだな。最近調子がいいらしいが」
最近の織田家の動向は、シィルやランスの耳に入ってきていた。つい数ヶ月前まで療養していた当主が自ら戦場に出て、一気に原家に侵攻。これを打ち破り、更には足利家にまでその食指を伸ばし、既に陥落寸前だという。
「がははははは。織田の香ちゃんとこっちの香ちゃん、合わせて3Pというのもいいなあ」
「(はあああ)」
ランスの色欲に溢れた皮算用に、シィルはまた心の中でため息をついた。
武田の香姫が今の言を聞けば、顔を真っ赤にして抗議することだろう。
自由都市に帰るのは、当分遅れそうだ。
「御免」
「あ、透琳様」
「なんだ?」
「早雲殿から、これを預かりました」
透琳は言うと、抱きかかえた布の包みをランスに差し出した。包みは細長くちょうど剣のような形状をしている。
「げ」
「あ、カオスさん」
その形を見て、ランスとシィルは、それが何なのかをすぐに悟る。ゼスで再開したとき、彼はその格好をしていたからだ。
透琳が布を剥ぎ取ると、その中から黒い刀身が覗いた。
『ふいーっ、生き返るぞ。お、心の友』
「ぐ……いらんのに」
差し出されたカオスをいちおう受け取りつつ、ランスが呟いた。カオスがいない間は実に快適な一人ライフを送れていたが、それも終わりのようだった。
『ひどいですよ? あれのどこが最萌めがねっこぢゃ! 質問攻めで口が疲れたわい』
「がははははは。あんな嘘に騙される奴が悪い」
『いつか仕返しして……ん?』
カオスが口答えをしようとした時、びくん、とカオスが震えた。刀身全体がぶるぶると横に振れる。
「なんだ、貧乏ゆすりはやめんかい」
『ちょっと待て、心の友。この感覚は』
カオスは柄の瞳を器用にもぐるりと一回転させた。
そして、ランスに目を向ける。目が光っていた。ランスはその光に見覚えがあった。その光は、カオスが魔人、あるいは使徒と対峙した時に滾る殺戮の衝動そのものなのだ。
『魔人……に近いが……そんな感じのものが、びんびんに匂って来おるぞ』
「なんですと?」
「なに?」
透琳とランス、二人の驚きの声が同時に発せられた。
カオスがこれほど真剣な口調で警告するのは、ランスがJAPANに来て以来はじめてだった。
ランスは問い返す。
「匂い? どっからだ?」
『これは……上じゃ! 上から匂う!』
「上……!?」
ランスではなく、透琳が驚きの声を発した。このランスの部屋は、この躑躅ヶ崎館の最上階に最も近くに位置している。つまり、この部屋の上には、たった一人の人間しかいないはず――
ランスと透琳がほぼ同時に立ち上がる。
飛び出すように部屋を出て、すぐ近くにある階段を目指す。
二人に遅れてシィルが続いた。
物音を聞いて振り返った信玄。そこでは、一人の男が顔を俯けて佇んでいた。
信玄はその男に見覚えがあった。
確か彼は、ランスの副官だとかいう――
「何だい? ……その瓢箪は?」
床下にしまおうとした瓢箪と同じものを、その男は手にぶら下げていた。
信玄は疑問に思う。なぜあんなものを持っているのか。
「お逃――げ――」
『運が悪いね、あんた』
長倉が何かを言いかけた瞬間。長倉の声と共鳴するかのように、腹から同時に男の声が響いた。
腹の底から、口からのものと全く違う音声が聞こえてくる。
それは、尋常の理解では決して有り得ぬことだった。
『じゃ、そろそろ本格的に行くとするか』
内容は奇妙なほどの軽口。にも関わらず、異様な重厚感のある声質。
その不気味さに、信玄は一歩後ろに退いた。
瞬間。
ぱん、と、長倉の体が、あっけなく弾けた。
「っ!」
「ふうっ」
先ほどまで長倉が立っていた畳に広がる血溜りの中、白い巨体が悠然とそびえ立っていた。
垂れ下がった耳。一見して人型に見えるが、身長は2メートルをゆうに越えている。手には巨大な銃。そして服には、長倉のものと思われる大量の血が染み込んでいる。
「ようやく、ってとこか」
「おまえ……!?」
「あん? 一応、自己紹介してやろうか。煉獄だ」
手元で銃をくるりと回し、煉獄はそう答えた。まがまがしい響きの名。それを聞き、信玄は反射的に手元の瓢箪をぎゅっと握り締めた。
「さて。そいじゃ挨拶は終わったから」
こきこきと首を鳴らすと、信玄に向かって言う。
「ザビエル様を――返してもらうぜ」
「!?」
信玄が腰の刀に手をかけようとしたその瞬間、ドゴン、という鈍い音が、城の上層部に響き渡った。煉獄の拳が信玄の鳩尾に猛スピードで飛び込んだ。打撃を受けると、信玄の体は凄まじい勢いで後ろに吹っ飛び、壁に叩きつけられた。
「ぐっはあぁあああっっ!!」
激突音と共に、信玄の絶叫が響く。
絶叫を気にした様子もなく、煉獄はうずくまる信玄に近づくと、手の銃でとんとんと肩を叩いた。
「……ん? あんた、弱いなあ」
煉獄は、いつのまにか信玄から奪い取ったもう一つの瓢箪と、既に持っていた一つの瓢箪を、それぞれの手に収めていた。
煉獄の正面には、腕と足を奇妙な方向に曲げた状態で、壁に持たれかかる信玄の姿があった。
「……ぐっ……あ……」
「できるだけ手加減したつもりなんだが、ねえ?」
煉獄の嘲笑の声に、信玄は反応できない。
と、そのとき。
「なんだ今の音!? ってうお!」
部屋の襖が開いた。
三人の男女だ。ランスとシィル、それに透琳。それぞれが、驚嘆の声を上げる。
「お館様――!?」
「信玄さまっ!?」
そんな三人の様子を見て、煉獄がふうとため息をつく。
「やれやれ。間が悪いね」
煉獄はちらりと手元の二つの瓢箪を見て、それから、透琳とランスを見やった。二人の殺気立った表情とは対照的に、煉獄は緊張感をかけらも感じていないかのように、ぽりぽりと頬をかいた。
「あいにくだが、今はあんまり暴れられないんだよ」
透琳は驚愕の目で壁に叩きつけられたままの信玄を見ていた。が、すぐに立ち直る。三人の中では、最も立ち直りが早かった。
背中の弓を神速で構え、矢をつがえて閃光のような一矢を煉獄へ向けて放つ。
「おっと」
早雲をも貫いたその矢を、煉獄はなんでもないかのようにひょいとかわした。
煉獄は大きく横に跳躍して、開いた窓のそばに乗った。そのまま枠の上に立つと、煉獄は振り返り、にやりと笑って言った。
「瓢箪集め以外にも、あんたらには色々世話になったからな。殺すのは後にしてやるよ」
「おいこら、待たんかーーーっ!」
「じゃあな」
ランスの声を無視して、煉獄は黒い夜空に向けて鳥のように、大きく跳んだ。あわててランスが窓に駆け寄るも、煉獄の姿は、既に遠くの森の上空にまで差し掛かっていた。
すぐに巨体が森の木々に隠れて見えなくなる。人間離れした跳躍力だった。
「がーっ! なんっだ、あいつはっ!」
突然の事態に、感情を爆発させているランス。
「シィル殿。治療を……!」
それとは対象的に、透琳は感情を押し殺した声で言った。
ランスと同じくおろおろしていたシィルは、透琳の指示にはっと我に返ると、慌ててうなずいた。
「は、はいっ!」
「ええーい、とりあえず行くぞ、あのデカブツを殺す!」
煉獄を追おうとするランスが、階段に向かって駆け出したとき、透琳が叫んだ。
「――ランス殿!」
透琳のその声には、ランスがこれまで聞いたこともないほど、強く熱い感情がむき出しにされていた。
「お館様の護衛を頼みまする! 私があの者を追うっ」
「な、なに?」
「御免!」
「あ、こら……くそっ」
ランスが戸惑っているうちに、透琳は階下へと駆けていった。
この緊急事態にあって、透琳の判断は揺るがなかった。正攻法の人海戦術で敵を迅速に追うには、どうしても透琳の指揮がすぐさま必要となる。それはランスでは決して不可能なことだ。
かといって、信玄をシィルと二人で残していく訳にはいかない。第二、第三の刺客が現れぬとも限らないのだ。
「ちっ」
遅れてそのことを理解したランスが、小さく舌打ちをした。
不機嫌そうに畳を踏み鳴らしつつも、振り返り、信玄とシィルの元に向かった。
ランスは信玄の前に立ち、体を見下ろした。
ひどい有様だった。腹を突き破った骨。どす黒い血が、壁と畳の上に撒き散らされている。シィルの呼びかけに応えているので意識はあるようだが、ランスの経験からは、その傷は明らかに致命傷のように思えた。
「おい、立て。そのままだと死ぬぞ」
「……ああ。僕は、負けない。僕は、無敵だ。僕は……僕は……かはっ」
口から血の塊を吐く。それを見て信玄は言葉を止めた。
「おい」
「……僕……は……死ぬ……のか……」
「知るか。シィルっ」
いつもと変わらぬぶっきらぼうな声で、ランスが問う。
シィルは泣きじゃくりながらヒーリングの魔法を唱え続けていた。詠唱も定かではないその魔法は、確かに信玄の傷を癒してはいたが、流す血の量からして明らかに無駄な努力だった。ただ終りの時を僅かに引き延ばしているに過ぎない。
「う、ひっぐ、ひっぐ」
その様子を見てランスは瞬時に悟った。
信玄は助からない。ここで死ぬ。
ランスは足元の信玄に向かって言った。
「駄目だ、死ぬらしい」
「……は……」
無情なまでの死の宣告を聞いても、信玄の表情は崩れない。
が、瞳が窓の遠くに焦点を合わせた。その眼には、清清しくも哀しい潤いを湛えていた。
信玄はかすれて滲んだ声で、独り言のようにつぶやいた。奇妙なほど静まった部屋の中に、信玄の言葉が反響する。
「……。……間違って……いたのか……な……」
「なに?」
「僕は……無敵だ……って……信じ……て……」
「間違いに決まってる。この世で無敵なのは俺様だけだ」
「……はは……」
知っていた。そんなことは、信玄の名を継ぐその前から知っていたのだ。
最初は本気で、自分は無敵の将軍になれると、なるべき傑物なのだと信じていた。
だけど現実はそうじゃなかった。無敵どころかやる事なすこと全てが人並み以下だった。
刀を振ればすっぽ抜ける。
采配を取れば模擬戦ですら連戦連敗。
勉学に励めど一向に成果は出ない。
たまにうまくやれたと思ったことがあっても、父の偉業には遥かに及ばなかった。
それでも護りたいものはあったから。国主の座を投げ出すことは出来なかった。身分を失い戦国の世に放り出されれば、実力のみで幼い妹を養い護らなければならない。それが不可能であることは自覚していた。
名君亡き後を狙う者どもの野望から、ただ一人の家族を守るためには、信玄は理想の君主であり続けなければならないのだ。
『小山田軍、離反致しました!』
『……うん』
『あにうえ、だいじょうぶ?』
『だいじょうぶだよ、香。ぼくは、ぜったいにまけない』
『ほんとに? ほんとにほんと?』
『ぼくはむてきだ!』
香への強がりを真実とすべく、死ぬ思いで努力を重ねた。
そして理解した。世界は無常だと。自分が当主のままでは、武田家は間違いなく滅びてしまうと。
努力の結果得たのは、絶望への確信だけだった。何をしようと、才能を持たぬ者は持つ者に絶対に勝てない。
理想と現実の間には、底なしに深い溝がぽっかりと開いていた。
絶望の霧が信玄の心を覆い尽くしていた。霧が晴れることは永遠にないように思えた。
『全てをお任せいただける、ということであれば。私に策があります』
『……策?』
『ご覚悟ください』
そんな中、溝の埋め方を教えてくれたものがいた。透琳だ。
頂点に立つものは何もせず、ただ如何なる時も超然としていればよい。そうすれば、自ずから人が付いてくる。
『信玄様!』
『お館様、ご指示を!』
透琳をはじめとし、昌景や彰炎、義風といった、義を重んずる英雄達の力を頼りにし、家名存亡の危機を打ち破ることができた。どころか同じことを続けているうちに、いつしか父と同じかそれ以上の名君と呼ばれるようになっていた。
人が付いてくると護りたいものが増えていった。からっぽの自分を信じて慕う臣下と民は、香と同じように大切な宝物だった。
皆が信玄を信じていた。一挙一動の全てが正しいと考えていた。
ただ信玄自身を除いては。
幾百万人に及ぶ民たちの信仰を一身に引き受け、信玄はただ一人、孤独の神として君臨していた。不安、恐れ、嫉妬、諦めといった全ての負の感情を心の奥底に封じ込めて、外見だけは悠然と構えていた。
自分に嘘をつくことにかけては、誰にも負けないほど得意になった。
その嘘ももはや限界だ。
偽りの戦神は偽りが故に崩壊し、死を迎えようとしている。
「……く……っ」
それでも護りたいものはあったから。
虚像が完全に消滅してしまう前に、信玄には成すべきことがあった。
信玄はランスを祈るような目つきで見上げると、力を振り絞って言葉を紡いだ。
「ランス……頼む……」
「なに?」
「民を、武田を……香……を……」
「他はいらんが香ちゃんだけは頼まれてやろう」
「ら、ランスさまっ!?」
「うるさい」
「……く……く……」
変わらぬランスとシィル。その様子を見て、信玄は心底笑った。
もはや満足に声も出ないようで、喉がかすれる音がするだけであったが。
「あにうえーーーーーーーーーー!」
と、透琳に事態を知らされた香が、信玄に駆け寄ってきた。両手には救急箱を抱えている。慌てて駆けつけてきたらしく、服は寝巻きのままだ。
香は信玄に駆け寄ると、手を握って言った。
「もう大丈夫です! いま治療を!」
「……香……」
信玄は初めて沈痛そうな表情を見せた。
重圧に何度も崩れ落ちそうになった時、芯から支えてくれた香。全ての源にして、信玄が信玄たる理由。彼女にだけは、どうしても伝えなければならない。
信玄は震える指を懸命に伸ばして香の頬に当てると、最後の力を振り絞って喉を震わせた。
「……香、ランス、を、頼れ……。かれなら、きっと……」
頼まれてやるとランスは言った。
それだけで信じられる。香はもう、だいじょうぶだと。
「兄上!? そんな、仰らないでください、そんな……遺言、のような……!」
「そう、だ……きっと……きみ、なら……」
信玄は、再度、心の底から笑った。自分を慕う者たちの気持ちを、初めて本当の意味で理解した。
ただ自らの実力を信じ、待ち受ける全ての困難をねじ伏せ、成功を収めるものがこの世に存在していた。それはなんと魅力的なことだろう。
この絶望に満ちた灰色の世界の中で、かれの信念が放つまばゆい輝きだけは不変の真実なのだ。
例え妄信と呼ばれようと、幻想の産物であったとしても、かの輝きを否定することなど、信玄には決して不可能だった。
なぜならその輝きこそ信玄がかつて失い、そして生涯を賭けて追い求めた光だったからだ。
届かぬ理想。そう思っていたものが、いま信玄の目の前にいた。
それが例え自分ではなくとも。信玄には十分だった。
この男であればきっと、残酷な世界の理から、香を護ってくれるだろうから。
言葉が途切れた。まぶたが閉じる。静寂が訪れる。
にっこりと笑ったまま、信玄は死んだ。
「……ふん」
ランスは信玄の安らかな死に顔を数秒見やってから、屍に背を向けて、ぽつりと一言だけ声を漏らした。
「――あに、うえ?」
香の悲痛な呼びかけの声が、虚しく響き続けていた。
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