部屋の中央に敷かれた布団の中で、香は目を瞑り、ひとり思い出に浸っていた。

 疑問に思わないわけではなかった。
 物心付いて以来、香は兄が戦場に向かう姿を見たことがない。それどころか武器を手に握ったところすら思い出せない。
 それでも香は信玄が無敵の戦神で、JAPAN一の名君なのだと疑いなく信じていた。
 甘えられる母も頼るべき父も失ってしまった香にとって、それは絶対の理なのだ。

 ただ、一度だけ、信玄が傷を負っていたことがあった。
 香がちょうど十二の誕生日を迎えた時だ。貝平定の戦が終焉を迎え、ひと段落がついたのか、信玄は香に誕生日の贈り物をしたいと言った。
 『何か、欲しいものはあるかい?』と。
 香は素直に答えた。高級な服もきらきらした宝石もいらない。
 兄自身が探し、選んで、兄の手からもらえる贈り物であればなんだって嬉しい。
 戦と政務に忙しい信玄が妹のために時間を割いてくれるのなら、それは至上の贈り物なのだと純粋に考えていた。

 答えを聞いた信玄は、なぜか表情を固まらせたように見えた。だがそれも一瞬のこと。信玄はいつものように優しく笑って、わかった、と頷いた。
 それから香の頭をいとおしげに撫でて、信玄は部屋を後にしたのだった。

 二日後の誕生日。
 武田領地を上げての盛大な祝いのあった夜、信玄は香の部屋を訪れ、約束どおりに贈り物を手渡した。それは、小さな綺麗な紫色の巻貝だった。硬質の殻にはあるまじきあざやかな色調と千変万化の彩に、香は思わず見惚れてしまった。
 じゃあね、と言ってすぐに立ち去ろうとした信玄を、香は慌てて呼び止めた。お礼を言おうとして――そしてようやく、香は信玄の異常な様子に気が付いた。
 貝殻を手渡した信玄の手には、無数の生傷があった。
 日常ではなかなか考えられなさそうなほど、深い傷だ。それになぜか背を柱に付けて、右足をひきずっている。自然な仕草に見せかけて、気付かせまいとしていたが。
 信玄の奇妙な様子に、香は心配して理由を問いただした。
 だが信玄は笑って誤魔化しただけだった。


 信玄がいなくなる日まで、香はあの時の信玄の不可解さの理由に気付くことができなかった。
 結局あれは、香が最悪の可能性として考えていた、戦場で負った傷ですらなかったのだ。
 理由はたった一つしかない。香では想像する術もなかったような理由だ。
 ――信玄が『自分自身の力』で贈り物を探すことは、きっと決死の大冒険だったのだ。

 自分が想像を遥かに超えて愛されていたことに、香はようやく気が付いた。
 同時に、愛しい人を失うのがこんなにも辛く悲しいことだったことを思い出した。
 香は泣いた。父の墓前でこっそりと誓ったもう決して泣くまいという決意は、あっさり崩れ去った。
 自分の心がとてつもなく脆かったことを知った。そして、この脆い心を必死で守ってくれてきた存在が、もうこの世にいないことをはっきりと実感した。


 泣き疲れた香が眠りについた頃。その寝顔を、天井裏から見つめるものがいた。不穏ににやりと笑っている男と、その背後で両手を組んで、はらはらと気を揉んでいる女。
 うち、男がすたっと飛び降りると、香のそばに近寄って麻袋を広げ始めた。


 香が目覚めると、そこにはお花畑が広がっていた。
 比喩ではなかった。花の甘い匂いがしていた。
 色とりどりの鮮やかな花が、足元から地平線の果てまでに咲き乱れていた。
 遠くに目を移すと、周囲をぐるりと高い山が囲んでいた。
 緑々とした山の木々がざわめいて初夏の到来を祝っていた。
「こ……」
 香は思わず跳ね起きた。なんで自室で泣いていたはずの自分が、花畑の真ん中で寝ているのか。
 普通は理解できない。夢と考えるのが一番自然だがそれにしては、着物越しに伝わる花々の感触と、緑の匂いに現実味があり過ぎた。
「おお。起きたか、香ちゃん」
「あ。香さま、大丈夫ですか?」
 自分の顔を上から覗きこむ、二人の男女。
 男はあきれ返るほど自信に溢れた笑みを浮かべ、女の方は気の毒なほど申し訳なさそうな表情をしていた。
「こ、こ」
「こかとりす?」
「こ、ここ、ここはどこっ!?」
「出雲の国だ」
 出雲といえば、貝の遥か西も西の地である。
「いずもっ!?」
「香ちゃん、なんかオウムみたいだぞ」
 ランスの失礼な言い草にも反論できぬほど、理解不能だった。
「な、なん、なんでっ……」
「暇だから、香ちゃんと旅行に来た」
「へえっ!?」
 ランスが言うには、こういうことらしい。リーザスから援軍が来るまでは、ランスはまともに動くことが出来ない。暇だ。どうせ暇なのなら、同じく暇そうにしている(喪中なのだが)香を、傷心旅行へ連れて行ってやろう。
 思い立ったが吉日ということで、ランスは香を眠らせ、誘拐し、うし車で計四カ国の関所をぶち抜き、街道を全速力で駆け抜けた。
 明け方から駆けて、昼ごろに出雲の山に着いた。
 景色がいいのでここで休もう――
「……」
 香は呆れた。呆れつくしていた。なんでこの人は、無駄なことにだけは行動力に満ちているのだろうか。
 いくら暇だとはいえ、戦乱の真っ只中にある国をほっぽって、その国の姫を誘拐して旅行など尋常では有り得ぬ発想である。止める人間はいなかったのだろうか。
「あ、いちおう、日帰りの予定なんですけど」
 シィルが付け足したが、なんのフォローにもなっていない。
 香はしばらくの間、呆れて声も出せなかったが、やがて諦めたように言った。
「……無茶苦茶です」
「がははははは。香ちゃんのためならどんな無茶もやってやるぞ」
「……はい、はい」
 とりあえず、適当に答えてみた。やり口が強引かつ果てしなく迷惑であったが、自分を心配しての行動である以上、強くは言えない。
 それに。腰に手を当てて笑い続けるランスの顔を見ると、部屋に一人で閉じこもっていた時よりは、心が楽なのは確かな事実だった。
 それはきっと、郷愁の念に似ているのだろう。


 しばらく香をいつものようにとりとめなく口説いていたランスだったが、十分も経たぬうちに姿を消してしまった。美女の匂いがする! と唐突に叫んで、シィルと共に森の中に飛び込んでしまったからだ。
 それも香を一人で放って、である。
 嵐のような男であった。ひょっとすれば、自分の落ち込み具合に気を使っての行動かもしれなかったが――それにしてもやり方が無茶苦茶すぎる。
「……ふう」
 香は再度ため息をついて、座り込んだ。
 脚を両手でかかえこみ頭を膝に付ける。
 旅行の目的からすれば、ランスのように野山を駆け回り気分転換をすべきなのだろうが、とてもそんな気分にはなれなかった。
 一人になると、香の心は思考の海に沈んでしまうのだ。
 目を瞑るとすぐに最愛の家族の顔が浮んでくる。
 どうしても思い出してしまう。まだ日数も経っていないのだ。心を切り替えて自然を楽しむことなど、とても不可能だった。ランスの底抜けな気楽さが、今となっては羨ましかった。
「あー☆」
 と、自分の世界に閉じこもりかけた香を呼び起こすかのように、甘ったるい声が響いてきた。
 顔を上げて声の方向に振り返ると、数十メートル向こうで、一人の女性が佇んでいた。服がかなり特徴的で、香は思わず目をむく。フリルの付いたスカートに白いエプロン。ラインプリムを頭に付けたその姿は、一言で言うとメイドであった。
 およそ野外には場違いな格好のその女性は、香の足元を指差すと嬉しそうに言った。
「みっつけたっ」
「……え? あの」
「あ、うごかないで☆」
 固まる香のところまで女性はたったっと走ってきた。そして香の足元に生えている花の一輪を、ぷちんと摘んだ。どこにでも咲いていそうな茶色の花だ。
「あ、あの?」
「ありがと! おかげでみつかっちゃった」
 女はぺこんと頭を下げた。わたしは何もしてないです。と言いかけた香だったが、女性のあまりに無邪気な喜びっぷりを目にすると、なんとなく言葉に詰まってしまう。
 ぱくぱくと唇だけが意味もなく動く。
 女は香のそんなそぶりを、少しの間いぶかしげに観察していた。やがてぱんと手を叩くと、さわやかに言った。
「そっか! おれーしないとね☆」
 何かを勘違いしているらしい。
「あの……お礼と言われましても、わたしは、その……」
「したいなー?」
 聞きようによっては危険な発言である。
「え……は、はあ」
 潤んだ瞳で懇願されては、香としてはどうすることもできない。
 香の言葉を了承と受け取って、メイド服の女はバスケットの中からレジャーシートを取り出した。
「はい、すわって。お茶ごちそうしたげる☆」
 シートを広げると、ティーセットを用意し手早くお茶会の準備をする。なんだか、というかさっぱり理屈がわからなかったが、もてなしの申し出を受けては、香としては断るわけにはいかない。
 香はシートの端っこに正座でちょこんと座ると、給仕の支度を続ける女の後姿を黙って見つめていた。
「そーいえば、自己紹介してないね。ちぬはね、ちぬっていうの。よろしくね☆」
「あ、ご丁寧に。香と言います」
「香たん。こーたん。かわいい名前だねっ」
 舌っ足らずで甘えた発音だが、なぜか嫌味は感じさせなかった。
 声の主の意思にネガティブな内容が全くないせいだろう。

 数分後。香の前には、お茶を淹れたティーカップが、なぜか六つも並べられていた。一つは香の、一つはちぬ自身のものだろうが、あとの四つは一体なんの意味があるのか。
「どぞ。好きなのとってね☆」
「あ、はい」
 疑問を覚えつつも、香は一番近いカップ――の、一つ右のカップを手に取った。カップを変えた理由は特になかったのだが、強いていえば、期待を込めて自分を見つめるちぬの視線がなんとなく気になった。
「へえーーー?」
 香が手を動かすのを眺めていたちぬは、なぜかとても感心した風に声を弾ませていた。
「こーたんて、すごいねー」
「え?」
「ううん。こっちの話☆」
 香の返事を待たずに、ちぬは自分もティーカップを手に取った。
 お茶を飲みながら、たわいない雑談を振る。
「ちぬはね、三人姉妹の末っ子なの」
「お姉さまが?」
「うん。いちばんうえのおねーたまは、すっごく頼りになって、でもとってもやさしくって、かっこよくって、だいすきなおねーたまなの」
「そうなんですか」
「うん。にばんめのおねーたまは、すっごく頼りになって、でもとってもやさしくて、かわいくて、やっぱりだいすきなおねーたまなの」
 嬉しそうに語るちぬ。大きく円を描くように手を広げたりするジェスチャーを交えていた。姉妹のことを尊敬しているんだという想いが、ストレートに深く伝わってきた。
 それを正面から受け止めることは、今の香には辛いことだった。
「そう、ですか……」
 なんとか、相槌を打つことだけはできた。
 が、それまでだった。続く声が出てこない。
「……」
 きっと一週間前までなら、ちぬに負けじと家族の自慢をしていたことだろう。しかし今の香では、その言葉を出すことができなかった。代わりに涙だけが否応なしに溢れてきてしまう。
 だめだ、いけない、と思っても、生理現象は止まらない。
「ん。ごめん。ちょっと待ってね」
 いきなり泣き出した香にも、ちぬはまったく動じなかった。
 スカートのポケットから白いレースの布を取り出し、香に差し出す。
「はい、はんかち☆」
「あ……」
 香はハンカチをためらいがちにに受け取ると、それで零れ落ちるものを拭いた。その仕草を、ちぬは黙って見つめ続けていた。
 数十秒で、香はとりあえず涙を抑えることができた。
 ハンカチを返しながら、ちぬに言う。
「理由を、聞かないんですね」
「ん? いいにくそうだし、言わなくていいよ」
「……ありがとうございます……。……でも……」
 ただ、ちぬが香が恩人だと言うのであれば、こうしてお茶をご馳走してくれたちぬも香の恩人だ。恩人の気分を害してしまった理由を、隠すわけにはいかないだろう。
 香は律儀に考えのもと、必死で感情を抑えながら、ぽつりぽつりと兄のことを話し始めた。ちぬはそれに口を挟まず、ときおりうんうんと頷きながら、優しげな表情で香の話に聞き入っていた。
「そっか」
 香の話が終わると、ちぬは目を瞑った。人差し指を宙でくるくると回している。何事か思案し始めたようだ。
「あのね」
 ちぬはまぶたを開けると、大空を見上げた。
 香もつられて顔を上げた。そこには雲ひとつない青空が広がっていた。
「ちぬ、もうすぐ死ぬの」
 ちぬは、あっけらかんに言った。
「……。……え?」
 衝撃的な発言に、香は慌ててちぬの顔を覗き込む。
 しかし、ちぬはにこにこと笑って、空を見上げたままだ。
「なんでかはわかんないけど、感じるの」
 ちぬがからかっているのだろうか、と香は一瞬思った。
 が、先ほどに見せたちぬの底抜けの優しさ。
 悪意を持った人を傷つける冗談を、言うような人ではない。
「だからね。ちぬは、今のうちにやれること、ぜーんぶやっておくつもり。素敵なことも、たのしーことも全部☆」
 ちぬは相変わらず甘えた声で、変わらぬ口調で言った。
 その言葉に嘘が含まれてはいない、と香は直感的に理解した。
 だからこそ不可解だった。聞かずにはおれなかった。
「で、でもっ!」
 香はちぬに詰め寄る。勢いでティーカップが倒れそうになったが、それを気にかける余裕はなかった。
「ど、どうして、平気なんですかっ? 怖くは、辛くはないんですかっ!?」
「ん? うーん?」
 問いを受けると、ちぬは小動物のように可愛く首を捻った。
 香の目には、今初めて考える、といった風に見えた。
「うん、たしかに」
 ちぬは香の目をまっすぐに見た。ちぬの目の奥には星がきらめいていた。そのきらめきを見ると、香は心の芯に染み渡るような、不思議な安心感を覚えた。その心地よい感覚は、ちぬが確かに真実を語っていると香に確信させた。
「こわくて、つらくて、かなしいことだけど」
 ちぬはそこで言葉を切ると、くすりと笑った。
「気持ちいいことも、嬉しいことも、いっぱいあったから――だから、いいのかな、っておもうことにしたの」
「……。……そう……ですか……」
 ちぬが言うのであれば、それは真実なのだろう。

 香は考える。ひょっとすると、信玄も同じだったのだろうか?
 だが今となっては確かめる術はない。だからこそちぬも、話を切り出しながらも決して信玄のことには言及せず、『自分は』という言い方をしたのだろう。
 結局推測するしかないのだ。答えの出ない疑問。
 兄が何を考え、何を信じていたのか。その生に価値を見出していたのか。もう誰にもわからない。信玄は戦神として以外の痕跡を、ほとんど何も残していかなかったからだ。
 ただ香の懐に、お守りとして収められた貝があるだけだった。

 悪い方向にもいい方向にも、確固たる根拠はない。
 思考の海に沈む香を前にして、ちぬは頬に手を当てた。
「んー。あ、そうだ」
 ことり、と音がした。ちぬが手のティーカップを盆の上に置いた音だ。あっちを向きこっちを向き。
 ちぬは頬に人差し指をぴっと当てたまま、ひとしきり迷う仕草を見せた。
「まだ早いかな……? ん、まいっか」
 ちぬは今までより穏やかな声で、香を優しく呼びかけた。
「こーたん? かお、あげて」
 香が言われたとおりにすると、いつのまにかちぬの顔がすぐ側にあった。同時に薄い香水の香りが鼻腔に感じられた。頭がぼーっとしてくるような甘い感覚だ。
 香はその匂いに気を取られてしまう。
 おかげで、ちぬの続く行動への反応が遅れた。
「ごめんね」
 何が――と、ちぬの言葉の意味を、香が考えようとした瞬間。
 香の唇にピンク色の柔らかいものが、押し当てられた。
「――!?」
 口内に何かが入ってくる。歯と歯茎の間が、ぺろぺろと撫で回される。ぬぞり、という経験したことのない感触が口の中から伝わってくる。
「……ぷはっ!」
 たっぷり十秒間の接触の後、ちぬが香から離れた。
 同時に香は、先ほどの感触が唇であることに気付く。
 つまり、自分がちぬにキスされていたことに。
 固まったままの香。対して、ちぬはいとおしげに自らの唇を撫で、悪戯っぽい笑いを浮かべていた。
「てへ☆」
 ウインクをして香を見つめる。
「げんき、でた?」
「……な、な、な、な、なーーーーっ!?」
「うんっ」
 あわてて立ち上がり唇を押さえる香を見て、ちぬはにっこりと笑った。
「あのね。ちぬがこれしたげると、みんな元気を出してくれるの」
「そ、そ、そ、そ!」
 そんな理屈は聞いたことがないですよ。
 それは違う意味の元気ではないですか。
 そもそも何かいろんな意味でいろんなものが間違ってないですか。
 香の抗議はどれも言葉にならない。
 ファーストキスをいきなり、舌まで絡められつつ奪われてしまった衝撃で、文字通り舌が回らない。
 そんな香の気持ちを知ってか知らずかちぬはふふふ、と笑って言葉を続けた。
「おとこのこだったら、もっといーーっぱい慰めたげるんだけど。それは、好きな人にしてもらってね」
「も、もっとって」
「うん、せっ」
「きゃー!」
 何かを言いかけたちぬを、香は慌てて遮った。
 きっと何か、聞いてはまずいことを口走ろうとしているのだ。
 と、その時。野太い男の声が、遠くから聞こえてきた。
「ちぬさまー! どこですかいー!?」
「あ」
 ちぬは香から視線をはずすと、すっくと立ち上がった。
「おむかえが来ちゃった」
 そして片づけを始める。はあはあと息を荒げている香に気を使いながら、茶道具とシートを手際よく回収する。
 ちぬが余った紅茶を足元にやったときに、花がものすごい勢いで茶色く萎れていたりするが、幸い香がその怪異に気付くことはなかった。
 片づけを終えると、ちぬは香に向かってにこやかに言った。
「それじゃーね、こーたん。元気でね☆」
 そうして、ちぬが一歩を踏み出そうとしたとき。
「あ、あのっ!」
 香はちぬを呼び止めた。今日、いや信玄が没して以来、初めて出した、必死な声だった。
「ど……どうか……その、あの……」
「?」
 思わず呼び止めてしまったものの、振り返ったちぬの無邪気な顔を見ると言葉は続かなかった。ちぬの事情を全く知らない以上、どんな言葉も陳腐なものにしかならないように思えたのだ。
 ただ、言わずにはおれなかったので、香は仕方なく一番最初に頭に浮かんだ言葉を口に出した。
「あ、あの……どうか、あ、諦めないで、ください……!」
 自分勝手な言い分だと思う。それでも、本人がどれだけ納得していたとしても、ただ生きていて欲しかった。ちぬが大好きだと言った、ふたりの姉のためにも。
 ちぬは香の言葉を反芻するかのように、胸に手を当てていた。
 やがてこくんと頷いて、あっさりと言った。
「うん。……やくそくだね☆」
 ちぬは向日葵のように爽やかな表情を浮かべた。香も同じように笑ってみせようとした。ちぬほど素敵かどうかはわからないが、少なくとも笑顔にはなっていると思った。
「それじゃ、またねー」
 大きく手を振りながら、ちぬは花畑の向こうに消えていった。

 可能性があるのであれば、生きていて欲しかった。希望を持ちたかった。生きてさえいれば、きっとまた会えるから。例え先に見えるのが絶望だけだったとしても、それは現在の話であって、未来がどうなるかは誰にもわからないのだ。
 いつの間にか、そう思えるようになっていた。
「ふー、ふー。な、なんとかもどれましたね」
「だーーっ! なんっなんだ、このモヒカンだらけの山は!」
 一大冒険を終えてきたらしい男女の声を背に聞きながら、香はいつまでも手を振り続けていた。

 
return to index
感想・連絡・苦情その他ありましたら掲示板または下記フォームにお寄せください。
執筆意欲になります。あと作者が泣いて喜びます。返信不要の場合、末尾に『/返信不要』とお付けください。