江戸城の執務室で、北条早雲は意識を集中させていた。
 机の上に並ぶ純白の和紙に、念入りに目を凝らしていく。綻びはないか。魔力は正確な場所に正確な量が込められているか。
 すべてが均一の形状、均一の魔力でなければ、式紙の効能は半減してしまうのだ。
「よし」
 問題がないことを確認すると、早雲は紙をさらってすっくと立ち上がった。そして足早に執務室を後にする。行く先は、城のはなれにある、彼の恋人の部屋だ。


 そのアイデアを得たのは、武田家に囚われていた時だった。
 早雲はランスからカオスを借り受けると、まずは朱雀の蘭への浸食を止める方法は無いか、と問いかけた。
 『知らねーよそんなもん』と一蹴されたが、それでもしつこく食い下がった。何しろカオスはまごうことなき伝説の生き証人。早雲では思いもつかぬ方法を、知識ではなく、経験として持っているかもしれない。
 早雲は、相談という形で少しずつカオスの知識を引き出していこうと試みた。ぬかにひたすら釘を打ち付けるような作業だったが、あきらめるわけにはいかなかった。
 その甲斐あってか、数時間後、問答に飽きてきたカオスが、どうでも良さそうに言った。
『めんどくせーな、もう。とりあえず封印すりゃいいぢゃろ』

 呪いにかかった人間の治療には、術式を解析する時間が必要だ。だが呪いが致命的かつ進行性のものの場合、普通は解析の時間など確保できない。そこでカオスの知人の魔術師(カオスは名前を告げなかった)は、ある方法を考案した。症状が時間で進行してしまうならば、時間の流れそのものを止めてしまえばよい。

 北条領に帰還後、涙を流して再開を喜ぶ蘭に、使徒の声の様子を聞いた。すると確かに状況は似通っていた。
 どうやら蘭の症状は使徒の『呼びかけ』に応じた場合に進行するようだが、意識がない状態で、呼びかけに応じることはできない。
 であれば、意識をしばらくの間封印しておき、その間に魔人を見つけて倒せばよい。

 早雲が蘭にそのことを伝えると、蘭は神妙な顔つきでうなずいた。
 そして溢れ出る涙をそっとぬぐい、精一杯の微笑みを早雲に向けて、唇を動かした。
『うん。……信じてる』
 それだけ言うと、蘭はすぐに自らの額に手を当て呪文を唱えた。すると、蘭は早雲の腕の中にとさりと収まった。
 自ら眠りの術をかけ、意識を絶ったのだ。日増しに強くなる呼びかけの声から、最早一刻の猶予もないことを、彼女は理解していたから。
 早雲は腕の中の蘭にぬくもりを感じつつ、自らの使命への誓いをより一層強くした。


 眠りに就いた蘭をはなれの庵に安置すると、早雲は執務室にこもりきりになった。
 政務、睡眠、食事に最低限度の時間を残して、研究に没頭する。時間が必要だった。魔人を倒すのは確かに至難の業だが、それ以前に封印手法自体にも課題があったのだ。
 今、蘭は単に眠っているだけだ。いわば応急処置だ。何か間違いがあれば、すぐに覚醒してしまう。
 誤って覚醒しないよう、かつ確実に目覚めさせられるよう、再封印を施す必要がある。
 さすがの早雲でも、通常の術式でそんな神業的な封印を行うことは不可能。準備が必要だった。
 必要となる四十八枚の式紙全てに念を封じ終えるためには、二週間近くの時間が必要だった。

「……」
 はやる気持ちを抑え、早雲は渡り廊下を進んでいった。
 蘭にきちんとした封印を施せば、後顧の憂いはなくなる。あとは家中を説得し、武田軍……というよりランスと協力して、魔人・織田信長を倒すだけだ。
 自分に張り付く武田の密偵に聞くところでは、武田軍は織田軍との決戦に勝利し、追撃中だという。
 今も協力してはいるが、早雲自身が率いた北条軍の本隊が加われば、勝利は確実なものとなるはずだった。
 早雲は廊下を歩き続けた。救いの光は、いまやすぐそこに透けて見えていた。

 しかし。
 蘭が安置されている建物に近づくと、周囲の人気のなさに気がついて、早雲は足を止めた。
「なに……?」
 背筋が凍るような違和感が、早雲を襲っていた。
 ここは風魔の忍と手練れの陰陽師が、数十人単位で護衛を行っているはず。
 にも関わらず、なぜ人の気配が無く……代わりに、血の匂いがするのか。
「……蘭!」
 早雲は顔色を変え、一直線に恋人の部屋へと向かった。最悪の予感が、脳裏を駆けめぐった。

 そして、予感は正しかった。
 夥しい血痕と折り重なる死体。凄まじい惨状の廊下を駆け抜けた突き当たりの部屋に、いてはならない男がいた。左手には奇妙な形の瓢箪をぶら下げ、右手には巨大な銃を握る白い肌の男。
 その巨漢の男は、蘭が寝かせられた布団の枕元に、あぐらをかいて座り込んでいた。
 早雲はすぐにその男の正体に気付く。風体は真田透琳から聞き及んでいた。
 信玄を暗殺した下手人にして、魔人・信長の使徒。煉獄である。
「よお。来たか」
「貴様ぁ!」
 使徒が、使徒を蘇らせに来た。一瞬で煉獄の意図を察し、早雲がとっさに懐の式紙を投げつけようとする。
 が、煉獄の方が早かった。煉獄は右手の銃を蘭のこめかみに突きつけ、低い声を発した。
「動くな」
 言葉どおり、早雲は止まった。止まらざるを得なかった。
 動けば蘭を殺す――明確な意思が、煉獄から感じられた。
「式紙で守ろう、てのは無駄だぜ。悪いが爆弾も仕掛けている」
「爆弾!?」
「ぷちハニーを飲み込ませたからな。合図ひとつで、内臓から吹き飛ぶ」
 背筋がどんどん冷えていく。薄暗い板張りの間に、煉獄の言動が不気味に響いていた。
「あんたのことだ。俺が何をしに来たか、わかってるとは思うが」
 煉獄の言葉に、早雲は返事をしない。ただ必死で思考を巡らせていた。警備が甘過ぎた、という後悔が頭を掠めるが、なんとか思考から追い出す。今早雲が選択を誤れば、蘭は間違いなく死んでしまう。救えるのは早雲しかないのだ。
 早雲は表情を変えぬまま、今自分がすべきことを必死で考え続けた。煉獄と視線を交わしつつ。
 
 ――なぜ煉獄はここにいるのか。いや、朱雀の復活と、瓢箪の回収に来た。それは理解できる。しかし廊下の血痕は乾き始めていた。煉獄が襲撃をかけてから相当な時間が経っているはず。蘭は単に眠っているだけなのだから、朱雀を起こして逃げることも可能だったはずだ。なぜそうしていない。
 まるで――早雲を待っていたかのようだ。
 
 早雲の考えがそこに至ったのと同時に、煉獄が口を開いた。
「だが、な。早雲さんよ。もうしばらく、待ってやってもいいぞ」
 絶望を感じさせた当の本人からの申し出に対し、早雲は言葉を慎重に選んで問い返した。
「……どういう意味だ」
「見逃してやる、と言ったんだ。タダってわけにはいかんがね」
 慎重に煉獄の言葉の意味を推察していく。
 怒りは既に臨界点を突破しそうになっていたが、すべての理性を駆使して、懸命にこらえた。
「条件、は」
「ああ」
 瓢箪をゆらゆらと揺らすと、煉獄は語り始めた。
「聞いてるかもしらんが、少々やっかいなことになっていてな」
 織田軍は信濃に侵攻したものの、信長の予想外の撤退により敗走した。総大将を失った織田軍に対し、武田家は追撃を強力に進めている。
 その勢いは、このまま行けば尾張にまで逆侵攻をかけられてしまいそうなほどだと。

 煉獄の情報は、早雲が武田家の密偵兼監視役から聞き及んでいた情報と、同じものだった。
 それを聞いて早雲も希望を持ったものだ。魔人を倒すことが、現実に可能なのだと。
「そこで、だ」
 煉獄は話を進めた。
 武田家の追撃を止めねばならない。徳川軍に援軍を求めてはみたが、それだけでは心もとない。上杉は大して役に立たない。
 よって、新しいコマがいる。つまり北条家の軍隊だ。
「三千ばかり、兵を貸してもらおうかね。武田を恨んでる奴らがいいな」
「ふざ、けろ」
 早雲は低い声で呟いた。が、煉獄は気にせずに言葉を続けた。
「なに、本気で戦う訳じゃない。領土をちょいと削り取っといて、あのうっとおしい奴らを少しの間、引き付けとくだけだ。期間は……そうだな、お前らなら一ヶ月もかければ爆弾ごと封印できるだろ。その間だけだ。破格の条件だろう?」
 くく、と腹を揺らして、煉獄が笑った。
 
 早雲は煉獄を凄まじい目つきで睨みつけていた。
 ……一ヶ月。その一ヶ月がどれだけ貴重か、わかっていて提案しているのだ、この男は。
 織田家の主力は魔物軍。JAPANに散らばる魔物達を再び集めるのに、一月もかからないだろう。それにカオスにより傷ついた魔人・信長も、怪我を回復させる筈。そうなれば力を取り戻した織田家は、再び武田への侵攻を始める。
 武田家が一気に信長を撃破するチャンスは今しかないのだ。
 最悪の場合、武田家は北条と織田、それに徳川と上杉の挟撃を受け、即座に滅ぼされる。その後北条家もまた滅ぼされるだろう。信長が人間の勢力を生かしておく理由がない。
 そして北条家を壊滅させた後、煉獄はゆっくりと蘭を覚醒させるはずだ。
 
 事実、煉獄は蘭の身柄を保証するとは言わなかった。
 約束したのは、しばらく待つ、ということだけなのだ。

 状況は絶望的だった。つまり早雲は、真田透琳やランスを裏切りつつ、煉獄の監視の目をかいくぐり、織田信長を倒さねばならない。
 可能性はあまりにも薄い。だが無ではない。無ではないのだ。
 今断れば、蘭は確実に死ぬ。早雲が少しでも攻撃の気配を見せれば、この男は蘭を殺し、早雲も殺す。
 
 早雲はぎりりと唇を噛んだ。赤い血が唇からたらりと流れた。強く握り締めたこぶしの内側で、爪が皮膚をえぐっていた。
 内面での葛藤を繰り広げる早雲を、煉獄は悠々とした変わらぬ表情で見つめていた。
「どうする? 俺はどっちでもいいんだが」
 言うと、煉獄は銃を蘭のこめかみに押し付け、引き金に指を添えた。無垢な寝顔に無骨な銃がごつりと当たった。
「あんたは違うだろうね」
 煉獄は、何もかも見透かしていた。


 翌日。北条の一軍が早雲の指揮を外れ、貝への侵攻を開始した。
 体外上は反乱と発表していたが、早雲が鎮圧に動かぬ以上、北条家は武田家に再び宣戦布告した、と取られてもおかしくない状況だった。
 武田家は、織田軍の追撃を止めざるを得なかった。

 
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