ランスと織田香を、黒ずくめの男達が取り囲んでいた。
「なんだ。お前らは」
 黒ずくめの服。顔以外の肌をくまなく布で覆っているが、忍者の服装よりはややゆったりとしている。
 香は知っていた。彼らの服は、信長直属の隠密集団である三笠衆の証明だ。香は自らの迂闊に後悔した。遠出するのであれば、せめて勝家か3Gに同行を願うべきだったと。

 なぜ二人が共にいて、こんな事態に巻き込まれているのかといえば、話は一時間ほど巻き戻る。


 朝の軍儀にて、政宗・鈴女と一緒に二分で考えた戦略を披露し終えたランスは、野原に散策に出ていた。
「るーららー」
 目的は織田香だ。政宗と鈴女により、ランスの目標である織田香姫がこの近くに来ていることを知り、いてもたってもいられなくなったのだ。信長に反抗した罪で追われている香姫を保護し、あわよくば手篭めにするのだ。

 しばらく野原を歩き続けたランスは、やがて一人の少女とあっさりと出会った。
「お?」
「……あ、こんにちは」
 ぺこりとお辞儀をしたその少女は、幼かった。それゆえ、その一点のみを持って、ランスはこの少女が織田香である、という考えを思考から切り離してしまった。
 つまり、第一印象は、他人だった。
「うむ、良い天気だな」
「ええ、そうですね」
「最近雨が降らないが」
「とても助かります。あの、貴方もお散歩で?」
 という香の問いかけで、ランスは自分が世間話をしている暇ではなかったということを思い出した。
「いや、散歩じゃない。君、この辺りで……ん?」
 ランスが目的について問いかけようとした瞬間。
 刺すような殺気が、自分を取り囲んでいることに気が付いた。いや、殺気ではない。いつのまにか――黒ずくめの四人の男が、ランスたちの側ににじり寄ってきていた。


 四人の男は香とランスの周囲を取り囲むと、互いに目配せをした。対話を持ちかけるような雰囲気ではなかった。どころか、明らかに殺意が感じられた。

 男達が刀を抜いたのを見て、香はランスに言った。
「あの……逃げてください」
 大人しく捕まる気はないが、それ以上に、無関係の人を巻き込むわけにはいかない。
「ふん?」
「彼らの狙いは、私です。あなたは関係ありません」
 大剣を吊っているので、この人に剣の心得があるとはわかる。しかし四対一だ。そのうえ三笠衆は手練の忍者ぞろいで、個々人の実力は、並の武士を遥かに上回る。分が悪いだろう。

 しかしランスは、香の言葉を無視してカオスを抜いた。
 ランスは香の前に立ち、三笠衆が反応する前に動いた。

 左足を踏み込み、そして斬る。瞬きの間に攻撃が繰り出された。正面の男は刀で受けるどころか、反応する間もなく胴体を二分された。
「がははは、ひとーり!」
 仲間が斬られてから、ようやくランスの右手の三笠衆が反応する。刀を振り上げ、ランスに斬りかかる。が、遅い。
 ランスは振るったカオスをそのまま地面に当て、反動で右手に勢いよく振り上げた。男の刃がランスに達する前に、ランスの刃が男を下から真っ二つにした。
「ふたり!」
 一瞬にして二人が倒されたのに動揺したか、左手の男が一歩後退する。その隙を見逃すランスではなかった。
 ランスはくるりとその場で回ると、軸足に力を込めて、男に向かってジャンプした。そしてカオスを振り下ろす。
 カオスの周囲で気が一瞬で膨れ上がり、次いで男に叩きつけられて、気は爆散した。男はかつて自分の肉体であった塵を残し、この世から消滅した。
「あ、あぶないっ!」
 と、ランスの背後から警告の声がした。振り返ると、刃のきらめきが目に入る。最後に残った一人が、ランスの無防備な頭を切りつけようとしていた。
「とあー!」
 ランスはマントを翻し、しゃがんだまま反対方向にカオスを振るった。半月の残像を残して、剣閃が空間を横断した。剣術の道理に反した無茶苦茶な動きだった。
 にも関わらず、ランスの方が速かった。男の刃がランスの頭に当たる直前に、ランスの刃が常識外の速度で滑り、男を肩からばっさりと切り裂いた。

「がはははは。楽勝だ、楽勝」
『最後は危なかった癖に』
「うるさい」
 口答えするカオスにケリを入れてから、ランスは改めて少女を見下ろした。
「お」
 なかなか、というかかなり可愛い。着物は質素ながら、真っ直ぐに流した黒髪は高貴さと清楚さを感じさせる。顔のつくりはこれまで見た中でも高レベルで整っている。惜しむらくは、体型がまだまだストライクゾーンに入っていないことだ。
 将来は100点近い美女になるな。と思いつつ、ランスは観察をやめた。いまは、別の目的があるのだ。
「あ……ありがとうございましたっ」
 と、香がランスに向かって勢いよく頭を下げた。
 ランスはひらひらと手を振って、礼に適当に答えた。
 そして問いかける。
「うむうむ。ところで君」
「あ……その、実は……」
「この辺りに、絶世の美女を見かけなかったか」
「え?」
 ランスの問いに、香は声を上げて驚いた。
 てっきり先ほどの刺客の件だと思っていたからだ。

 実際のところ、ランスは香の正体など気にもかけていなかったのだが。ストライクゾーンを外れた女に対しては、かなり無関心なランスであった。
 また、刺客に襲われるなど日常茶飯事だから、という理由もあった。

 そんなわけで、ランスは刺客の件ではなく、本来の目的について、香に問いかけたのだった。
「JAPAN一の美女が、この原っぱで俺様を待っているのだ。なにしろJAPAN一だからな。きっと見ただけで目もくらむ様な美女に違いないぞ」
 一人で勝手に興奮しているランスを前に、香は首を小さくかしげた。そして、とにかく心当たりを探る。恩人のためだ。
 とはいえ香はこの地に詳しいわけではない。そのうえ人目を避けて旅をしている。あまり力になれそうにないな、と、香は残念に思う。
 それでも必死に記憶を掘り返してみると、一人、該当しそうな人物がいた。JAPAN一かどうかはわからないが、綺麗であることは確かだ。
「あの。こういう」
 香は両手を頭の上にやって、ぴょこん、と動かしてみせた。
 どうも髪型のことを言っているらしい。
「髪を立てた明るい方のことなら、存じております」
 ランスは、しかし残念そうに首を振って答えた。
「ああ。確かに美人だが、あれは違う。忍者じゃなくて、お姫様のほうだ」
「姫……美女、の」
「うむ。名前は香姫ちゃんという」
 香はぽかんと口を開けた。なんでその名前が飛び出てくるのか――と疑問に思う。
 だが、そういえば心当たりはあった。以前、兄と二人で茶屋をやっていた頃に。そんな話を聞いては、抗議に声を張り上げていた記憶がある。
 そして、この前鈴女が言っていた。確か、武田の大将軍が、自分を探していると。
 香ははっと顔を上げると、口を動かした。
「あの。ひょっとして、あなたがランスさんですか?」
「ん? 確かに俺様がランス様だ」
「あなたが……」
 香はランスを見上げて呟いた。確かに、伝え聞く話のとおりの人だ。常人とは違うオーラをまとっている。輝く瞳からは、ものすごい自信を伺える。
「……え?」
 ふいに香は、ランスの瞳に懐かしさを感じた。
 この懐かしさは、心地よい。安心感を覚える。
 なぜだろう、と考えたところで、香の脳裏にある記憶が浮んだ。

 それはちょうど、信長が尾張の国主となって一ヶ月後のことだった。香は太陽の香りを漂わせる女性と共に、野原で春のおとずれを楽しんでいた。
 信長の正室、つまり香の姉でもあるその女性の名は、帰蝶といった。
『んー! いい風ねー』
 両手をいっぱいに広げ、たなびく風を受けて、帰蝶が言った。緑色を基調とした動きやすそうな着物が、風に揺られてはためいていた。
 香もまねをして、手を広げた。すると、野の香りが鼻を通り抜けて、体と心を清めていった。
『ほんとです』
 香はしばらく、野原の楽しみを満喫していた。寝転がったり、草冠を作ったり、珍しい花を探したりした。屋外での遊びについては、全て帰蝶が教えてくれていた。

 そうして遊び続けて、やがて陽が傾きかけて、帰りの道すがら。
 香は隣を歩く帰蝶に、ふと問いかけた。
『あねうえ』
『ん? どしたの?』
『あねうえは、いなくなったりしませんか?』
 帰蝶は一瞬、寂しそうに目を細めた。香の父と上の兄が、先の戦で戦死したことを思い出していた。もともとこの遠出は、心に傷を負った香を慰めるために、帰蝶が誘いかけたことだったのだ。
 だから、落ち込ませてはいけない。
 帰蝶は膝に手を当て上体を落とし、香と目線を合わせた。そして、太陽のようにっこりと笑ってみせた。大きな瞳が、強い輝きを発していた。
『もっちろん!』
『きゃ!』
 帰蝶は香の頭に手を伸ばし、わしゃくしゃと髪を撫でた。
『ずーっとずーっと、一緒よ』
『あ……あねうえは、ずーっといっしょなのですか?』
 帰蝶は腰に手を当てて胸を張り、自信満々に言った。
『そーよ。わたしはそりゃもう強いからね!』
『強いですか』
 なぜ強ければずっと一緒なのか、理屈はよくわからないが、とにかく凄い自信だ。なので説得力だけはある。
『あはは。そうよ、おねーさんは強いのよー』
 帰蝶は鼻高々で繰り返した。調子に乗りやすい性質なのだ。
『それにきみのおにーさんも強いし。だから、みんなずっと一緒よ。3Gもえっじも、みんな一緒』
『ずっと……』
 香は両頬に手をあて、ほうっ、と深く息をついた。どうやら安心したようだ。そんな香の様子を見て帰蝶は満足し、香に手を差し伸べた。
『ほら。帰りましょう。帰ったらみんなで一緒に晩ご飯よ。いっぱい食べていっぱい寝て、それで明日は、そうね、木登りを教えたげるわ』
『はいっ』
 香もまたにっこりと笑って、帰蝶の手を取った。
 幸せだった。こんなにも優しく、暖かい人たちが、自分のそばにいてくれるのだから。


「……おーい」
 と、ランスが手を振っていた。香の目の前で。
 香は自分が話し中だったことを思い出し、慌てておじぎをした。
「す、すいません。失礼しましたっ」
「うむ、どうかしたのか?」
 姉のことを思い出していました、とは初対面の相手には切り出しにくい。変な人だと思われてしまう。
 と、香は本来の話題を思い出し、ランスに問いかけた。
「あの……それで、その人にはどういった御用が?」
 ともかく用件を聞く。仮にも自分の命の恩人である。
 それに、こちらからもお願いはあるのだ。
「ああ。織田の香姫ちゃんが困っているらしいので、助けに来てやったのだ」
「助けに?」
「うむ。もちろん代償は体で払ってもらうがな。おっと君にはまだ早かったか。がははははは」
 ランスは視線を香から外し、腰に手を当てて馬鹿笑いをした。そのせいでランスは、香が思いつめた表情で両のこぶしをぎゅっと握り締めていることに、気づけなかった。
「あの……」
 香は決意を秘めた表情で、ランスを見上げて言った。
「のちほど、お礼に伺います」
 ランスが何かを言う前に、香はくるりと回ってランスに背を向けると、たったっ、と足早に立ち去っていった。


 数分後、ランスの前にしゅたん、と影が降り立つ。鈴女であった。ランスは鈴女の姿を見ると、不思議そうに問いかけた。
「ん? どこに行ってた?」
「掃除してたでござる」
 何の掃除かといえば、無論、暗殺者のお掃除である。鈴女はひゅー、と唇を吹いた。腕を頭の後ろで組んで、手を隠す。
 ランスからは見えなかったが、その手には血濡れのくないがこっそりと握られていたりする。先ほどの刺客は、三笠衆のごく一部でしかなかったのだ。
「それはそうと、一人でござるか? 香姫どのは?」
「いないぞ」
「あれ、おかしいなあ」
 鈴女は首をひねりつつ、きょろきょろと辺りを見回した。が、周囲に人影は無い。たしかにランス一人だ。
 確かに連れてきたはずなのに、おかしい。
 鈴女は更に疑問を深め、視線をランスの足元にやった。
「お?」
 鈴女は首をかしげた。戦闘で乱れた草むらの中に、小さく軽い足跡が刻み付けられていることに気が付いたからだ。やはりいた。なんで会ってないのだ。透明人間にでもなっていたか。
 鈴女は額に指を当てて考えるポーズをした。
「んー、んー?」
 ぴーん。と、鈴女の頭で、ある考えが閃いた。考えというよりは思い付きだ。鈴女はランスのそばにとことこと近寄ると、上目遣いで問いかけた。
「ときにランスおじー」
「おじーはやめろ。なんだ?」
「ランスはロリコンでござるか?」
 いきなり直球である。ランスは不機嫌そうに眉をひそめ、鈴女の問いに答えた。
「女は十五歳以上だ」
「なるほど。ところで、香姫は何歳だと思うでござる?」
「うむ、JAPAN一の美人というからな。きっと熟す直前の色気と可愛げを兼ね備えた、十八歳ぐらいの美女に違いない」
「あー」
 つまり、そういうことらしい。鈴女はうんうんと頷いた。
 そして考え始める。今度はどうお膳立てすべきか、と。


 結局、鈴女はいちばん単純な方法を取ることにした。
 その晩のこと。
 寝室に戻ってきたランスは、部屋に二人の女性がいることに気が付いた。部屋の隅で、鈴女が体育座りをしており、部屋の中央では、昼ごろに会った少女が、緊張の面持ちでちょこんと正座していた。
「なんだ、君か」
 最初、ランスは不審者の気配を感じて警戒していたが、香の姿を見てすぐに警戒を解いた。自分の部屋に勝手に入り込んだことを気にするほど、細かい男ではなかった。
 香はまず、ランスにふかぶかと頭を下げると、昼の件についての礼を言った。感情のこもった『ありがとうございます』という言葉に、ランスは気を良くしたらしく、馬鹿笑いをした。
「がはははは、よきにはからえ」
 ひとしきり笑うと、ランスは香の全身を観察する。
「ふむ」
 改めて見ると、かなり可愛い。非常に可愛い。整った輪郭にぱっちりとした目。まだ手を出すには早すぎるが、将来は間違いなく超美人だ。
 ランスはにやりと笑うと言った。
「うむ、将来は俺様の女にしてやろう。五年ぐらい経ったらまた来いよ……えーと、名前はなんだ」
 そういえば聞いていなかった、と、ランスが問いかける。香は部屋の隅の鈴女に一瞬だけ目配せをしてから、こくりと頷いて、唇を動かした。
「私、香と申します」
「ほう。君も香ちゃんというのか」
「は、はい」
「JAPANには香ちゃんが多いのだな。織田香ちゃんに、武田香ちゃんに、君か」
 意味は伝わったが、意図がぜんぜん伝わっていなかった。
 香は言い方を変えることにした。
「あの、ですから、私が香です。織田香と申します」
「…………へ?」
 数秒の間。ランスは思わず鈴女に振り返り、問いかけた。
「まぢ?」
「まぢでござる」
 ランスの間抜けな問いかけに、鈴女が棒読み口調で即答する。返事を聞くと、ランスは顎をかくんと垂れた。あまりにも予想外すぎた。
 そんな二人の様子を、香は怪訝そうに見つめていた。
「……あの……?」
「あ、気にせずお願いを続けるでござるよー」
 鈴女がのんきな口調で言った。よく意図がわからなかったが、香は鈴女を信頼しているので、指示どおりに『お願い』の経緯を語り始めた。

 香は語った。
 かつて優しかった兄が豹変し、人間以外のものになってしまったこと。このままでは、JAPANは兄によって滅ぼされてしまうこと。
 そして、それを止めることができるのは、カオスを持つランス以外には不可能であることを。

「どうか……どうか、兄を、止めてください」
 香姫は長い話の最後に、震える声で呟いた。


 香の深刻な話を、しかしランスは上の空で聞き流していた。
 それどころではなかった。ゼスからはるばるJAPANに来て、はや半年だ。その間ずーっと最終目標としていた織田香姫が、幼女に近い少女だったという事実に衝撃を覚え、頭が真っ白になっていた。

 そんなわけで話を終えても反応を示さないランスに対し、香は言葉を続けた。
「……もちろん、できるかぎりのお礼はしたいと思います」
「あ?」
「その、私はぜんぜん美女じゃなくて、ランスさんにとっては、とても不足しているかもしれませんが……」
「あー、いや」
 ランスは呆然としたまま、素直な感想を吐いた。
「香ちゃんはとても可愛いが」
「……そ、そうですか? ……ありがとうございます」
 しばらくの間、沈黙が流れていた。
 が、やがて香は、立ち上がった。頬が僅かに赤い。照れと羞恥のためだった。
「それでは、その」
 ランスの側に近寄ると、香は膝を突いた。
「私の体は……お礼になりますでしょうか」
「……え゛」
 気を取り直しかけたランスが、再び固まった。

 困る。困っていた。
 さっき鈴女に言ったとおり、自分はロリコンではないのだ。体など差し出されても困る。せめてあと五年、いや三年。
 ならば素直に引き受ければよさそうなものだが、一度『交換条件』と言ってしまったため、今更切り出しにくい。
 それに――勿体無いとも思っていた。
 確かにこの子は可愛いのだ。香の小さい顔が、ぼんぼりの明かりに照らされて橙色に染まり、ランスのすぐ前に迫っていた。手を伸ばせば包み込めるところに、華奢な体がちょこんと鎮座していた。
 ランスは香の全身をもう一度眺めた。みずみずしい唇からすー、はー、とか細い息が漏れてくる。指の先が僅かに震えているのが見て取れた。きっと緊張のせいだろう。
 それでも、懇願の意思が込められた瞳は、ランスを真っ直ぐに見据えていた。
 瞳は眩しいほどに輝いていた。その輝きからは、触れれば壊れてしまいそうな健気さと、秘められた意思の強さの両方を同時にうかがい知ることができた。
 と、ランスの視線をどう受け止めたのか、香は更にランスに近寄ってきた。二束の細い後ろ髪が、あぐらをかくランスの膝元にかかった。髪はランスの膝を肌着越しに優しく撫でた。
「私は、その、美人ではないですけど……が、がんばりますから……」
「あー、うー、だーっ」
 追い詰められたランスは、首をぶんぶんと横に振ると、その場に立ち上がった。
「決めた!」
 もういい。やってしまおう。こんなに可愛いんだから、いけるかもしれない。
 ランスは血走った目をして香にそろりと手を伸ばした。犯罪者の世界に半歩、足を踏み入れてしまった。
 香はびくりと体を震わせ、ぎゅっと目をつむった。それでもランスの前に差し出した体は引っ込めない。

 中途半端に耳年増な香は、『そういうこと』について詳細は知らないものの、なにやら女にとってとても大変なものなのだ、という知識だけは持っている。
 痛いかもしれない。苦しいかもしれない。でも恩人が望んだことだ。香は甘んじて受け入れるつもりだった。躊躇する理由は、まったくなかった。だいいち、今まで最も辛かったこと――兄の豹変――以上に苦しいことなど、存在しないのだから。

「とお!」
 踏ん切りをつけるためか、ランスが掛け声を上げた。
 香は唾を飲み込み、覚悟を決めた。
 ランスの手が、香に触れる。

 ぺたん。

「……?」
 香は目を開けた。
 胸のあたりに感触を感じたが、いつまでたってもその次が無いからだ。前を見ると、ランスが香の胸に手を当てて、間抜けに口をあけていた。
「あの、何か」
「……だぁー」
 ぺったんこな感触が、ランスを完膚なきまでに打ち負かしていた。だめだ。なにかもう何もかもが駄目だ。言い知れぬ敗北感を覚え、ランスはがっくりとうなだれた。
「あ、あの? いかがなさいましたっ!?」
 自分が粗相をしてしまったのか、と、心配そうにランスに問いかける香。気付かずに嘆き続けるランス。
「……ほむ、ほむ」
 二人のほほえましい様子を見て、鈴女はつられて自分も笑い出しそうになっていることを自覚した。笑顔が演技でなく、自然とあふれ出してくることなど、ずいぶんと久しぶりのことだった。
 鈴女はその感情に逆らわず、くすりと笑った。




 展開する県政軍を一望できるやぐらに、二人の美女が陣取っていた。上杉謙信と、直江愛だ。
 うち直江愛は、その手に武田軍からの指令書を携えていた。

『三日で落とせ』

 それが指令書の要旨である。確かに、仕掛け時だった。
 何度となく繰り返してきた降伏勧告は一応効果を発揮し、敵軍の二割近くがこちらに下ってきた。が、依然として、八割以上の者達が県政に従っている。
 そういった者達に対しては、もはや実力行使以外に手はあるまい。即効で県政軍を切り崩し、県政の首級を挙げる。
 愛の頭脳と謙信の武勇、そして鉄砲という切り札を持ってすれば、無茶ではあれど無理な話ではないが、この場合問題になるのが春日山城の人質である。

 指令書にはいちおう、人質への対処方法らしきものが書かれてあった。
 いわく、『人質は俺様が何とかする』とのことだ。

 非常にアレである。

 なんとか、の具体的な内容が少しも書かれていない。好意的に解釈すれば、差出人を信用しろという意味だろうが。
 愛はもう一度ため息をついた。信用、できるわけないではないか。あの好色一代男を。
「どうした、愛?」
 これみよがしにため息をつく愛が流石に気になったらしく、謙信が愛に声をかけた。
「なんでもありませんよ」
 と、愛がとりつくろう。確かに愛はあんな指令書など信用できない。というより、ランスという男が完璧に信用できない。
 しかし、謙信にとってはそうではない。逆に差出人の名前を見た瞬間、決意を固めたほどだ。迷いを断ち、全力を持って、上杉県政を討ち取ると。
 だから愛もまた、謙信を信じて進むほかなかった。

 気苦労がまた増えたことに、諦めと、少しの嬉しさを感じつつ、愛は指令書のことを考えるのをやめた。
「それより。そろそろ動くようです。予定通りいきますよ」
「うむ。わかっている」
 二人は意識を合わせて前方に振り向いた。
 はるか遠くから、法螺貝の音が聞こえてきた。県政軍の突撃の合図だ。

 県政軍は、正方形の陣を保ったまま、謙信軍に突っ込んできた。待ち構えるは謙信軍の中央に位置する、奇妙な長筒を抱えた足軽部隊だ。
 その部隊の中央で、一人の少女がタイミングを計っていた。少女の名前は柚原柚美。種子島の鉄砲商人にして、凄腕の狙撃主。そして今は、謙信軍の突撃隊長である。
 柚美はしばらくぼんやりと敵軍を見つめていたが、やがて小さな声で呟いた。
「……うん。……準備……」
「撃ち方、用意!」
 柚美の代わりに、元隊長が部下に命令を下す。
 合図とともに、柚美もまた箒星を肩に添えた。
「……」
 一瞬。その間に、柚美の意識は敵先陣を一気に通り越した。意識は戦場を巡り、数百メートル向こうで軍配を振るう男に達した。その男の額の中央に、柚美は全ての意識を集中させた。
 更に数瞬の間を置いて、柚美は人差し指を僅かに動かした。
 どおん、という爆発音。同時に全身に強い反動を覚える。
 踏ん張る足が、僅かに後退した。
「……よし」
 周囲では鉄砲の発射音が次々と鳴り響いていた。そんな中、柚美は顔を上げた。騒音の中でも、柚美には聞き取ることが出来た。遥か遠くで目標が地面にどさりと倒れる音を。
 手応えがあった。弾の反動以上の感触を意識に感じて、柚美は確信した。間違いなく当たった。
 柚美は緊張を解いてため息をつくと、跳ね上がった箒星を持ち替えた。そして、箒星の砲身をいとおしげに撫でた。
「よく……やったね……」
 それから柚美は顔を上げ、前方を見すえた。統率者を失ってのことか、また鉄砲の掃射によってか、ともかく県政軍の進軍は止まっていた。柚美は満足げに頷くと、第二射の弾込めを始めた。


 鉄砲隊の一斉掃射により進軍が止まったのを見て、謙信はすらりと刀を抜いた。
 それに合わせ、愛が軍配をさっと振る。するとやぐらの下で、刀と鞘を擦り合わせる音が次々と発せられた。謙信直属の女の子武士達が、いっせいに刀を抜いたのだ。
 周囲の空気が、一気に張り詰めた。
「いざ!」
 謙信は一声叫ぶとふわりとスカートを揺らめかせ、やぐらを飛び降りた。そして、地を駆けはじめた。

 風の振動だけを残して、謙信は人外の速度で戦場を駆けた。先陣の鉄砲隊の横を駆け抜けて、武士隊を一瞬で置き去りにし、軍団の先頭に踊り出た。
 謙信の瞳はただ、遠くそびえ立つ春日山の城のみを見据えていた。そこに映すものを目標にして、謙信は加速し続けた。

 混乱していた県政軍のうち、斥候の任に当たっていた一小隊が、最初に謙信と遭遇した。
 小隊の隊長は、猛烈に突進してきた人物が上杉謙信その人であることを見て取ると、恐怖で体を振るわせた。無理もなかった。戦意を全身から噴出す軍神が、凄まじい勢いで自分に向かってくるのだから。
 隊長は慌てて配下のものに矢を射るように命じた。
「はああっ!」
 と、謙信は気合の声を発した。つま先で地面を掘り返し、更に加速する。遅れて謙信がさっきまで立っていた地面に、矢の雨が降り注いだ。
 矢は一本も当たらなかった。かすりもしなかった。
「なあっ!」
 射主達から絶望の悲鳴が上がった。
 謙信は柄を握る手に力を込めた。県政軍はもうすぐそこだ。
「毘沙門天の加護ぞある!」
 叫ぶと謙信は武士達の正面に飛び込み、刀を振りかぶった。途端、黄金色のエネルギーが太刀を中心として荒れ狂う。謙信が刀を全力で振るうと同時に、それは放たれた。
 黄金の閃光が天と地のはざまに迸った。県政軍先鋒の十二人が、閃光にまとめて薙ぎ払われた。ある者は地に叩きつけられ、ある者は上空に打ち上げられた。
 何の抵抗もできず、全員が吹っ飛んだ。

 謙信は疾走を再開し更に戦場を駆ける。
 展開する県政軍を、片っ端から小隊単位で吹っ飛ばしていく。
「軍神様の降臨だっ!」
「続け、続けえ!」
 鬼神のごとき単騎駆けを見せ付けた大将につられ、謙信軍の全部隊が突撃を開始した。謙信が見せた信じがたい武勇は、兵士達から戦場の恐怖を取り払い、高揚感を与えていた。
 柚美の初撃により統制を崩した県政軍は、怒涛のごとく押し寄せる謙信軍の前に、なすすべもなく崩壊していった。全軍が撤退しはじめるまでに、十分とかからなかった。

 
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