春日山を、軍勢が取り囲んでいた。
 野戦で県政軍をさんざんに打ち破った謙信達は、勢いを止めずに追撃を開始。主力軍の四割強をその場で討ち取り、さらには出丸を次々と落としていった。まさに破竹の勢いである。
 県政軍の退却経路には、七つの砦や要害が築かれていた。一日で四の砦を落とし、その翌日は残りの三の砦を落とした。そこで謙信と愛は、進軍を止め、早馬を走らせた。ランスの指示を仰ぐためだ。
 三刻で返事が返ってきた。『すぐにかかれ』と。その返事に、愛は舌打ちをし、不信感をさらに募らせる。人質奪還工作が本気かどうか怪しくなったと考えた。
 だが謙信は違った。
 ランスの返事を受け取ると、謙信は迷いなく突撃を指示した。
 かくして、賽は投げられた。愛にできることは、ランスが信用に値しない男だった時の被害を、最小限に抑えることだけだった。


 謙信軍は春日山を熟知していた。どんな城にも、当主が逃げるための裏道が存在する。愛の用心により、春日山はそれが顕著だ。そして、少数といえど内部に敵の侵入を許してしまえば、篭城はその意味を成さなくなる。
 二の丸、三の丸は、なし崩し的に落ちていった。謙信がたった一人で城門を突き破るのを見て、部隊ごと降伏してくるものがほとんどだった。
 堅城と謳われた春日山は、守るための十分な兵に恵まれたにもかかわわらず、今や落城が間近に迫っていた。


 その天守閣で、一人の男が表情を歪めていた。男は板間から立ち上がっては座り、また立ち上がってはせわしなく歩き回っていた。上杉県政だ。
 県政は頭をかきむしりつつ叫んだ。
「な、なぜだっ! なぜワシが!」
 不条理を嘆く県政の声には、怒りと恐怖がまぜこぜになっていた。
 いったいどこで間違ったのか、理解できない。なぜ、二万の軍隊が何の役にも立たないのだ。

 県政は謙信軍を掃討するため、一万を迎撃に出し、五千を城内に配置し、残りを遊撃軍として野に放った。戦術の限りを尽くした、万全の体制のはずだった。なのにこの劣勢はなんだ。
 迎撃軍は蹴散らされ、遊撃軍は無視され、五千の守備兵は今正に敗北しようとしている。謙信軍と直接ぶつかって以降、県政は敗北の報告しか受けていない。
「どういうことだ、説明しろ!」
 県政は声を裏返して叫んだ。視線は自分の横に控える不気味な男に向けられていた。
「……」
 瞳の部分だけがくりぬかれた、黒い眼帯を嵌めた人物。煉獄が残していった。三笠衆の頭目クラスの男だった。男は腕組みをしたまま、県政の問いに答えず、考え事をしていた。

 この男、三笠衆の頭目に煉獄が与えた指令はただ一つ。手段を問わず、上杉謙信を討ち取ること、それだけだ。謙信さえ殺せば、上杉が一つにまとまることはない。
 とはいえ戦場で討ち取ることは最初から選択肢に入っていない。三笠衆は全員が人外のものとなり果てているが、人間であったころの知識は残っている。
 軍神に正面から戦いを挑むなど、正気の沙汰ではないことを、男は理解していた。だから、切り札を二つ用意した。囮と刃を。
 頭目にとって県政は謙信をおびき出すための囮に過ぎない。謙信の性格を鑑みれば、必ず自分の手で決着を付けにくるだろう。
 そして、謙信の喉を突くための刃とは、天守の間に囚えた、八人の女武将達だった。


 女武将は、県政達の背後で手と足を縛られていた。周りを三笠衆が隙間無く取り囲んでいる。抵抗と逃亡を防ぎ、いざというときに、命を絶つためだ。
「……ちょっと」
 そんな中、一番手前の、後ろ髪をわっかで止めた活発そうな少女が、ぼそぼそと呟いた。三笠衆に聞かせないためか、蚊の鳴くような声だ。
 少女の名は名は勝子。かつては高位の将軍として上杉軍の足軽部隊を統率していた。隣の虎子もまた、将軍として陰陽部隊を率いていた。
「これ、式神でなんとかならないの」
 くいくいと後ろ手を動かし、勝子は虎子にアピールした。
 虎子はぴくりと身体を震わせた。髪の毛に付けた虎耳のヘアバンドを、どういう理屈かぴこぴこと揺らした。そして押し殺した声で答える。その語調には悔しさが滲み出ていた。
「さっきから、ずっとやってる。……でも駄目。封印縄で、魔力が封じられてるみたい」
 失望した様子で、勝子がため息をついた。
「はあ。虎子は使えないなあ」
「どっちがよ。あんたなんか、何もできないくせに」
「やってるわよ! でもほどけないの!」
「結局できないんじゃん」
「なによっ!?」
「黙れ」
 無感情な声が、虎子と勝子の耳を貫いた。とたんに口をつぐむ二人。ばつが悪そうに、しゅんとうなだれている。
 周りの人質達は、不安そうな表情を二人に向けている。この二人は確かに有能ではあるのだが、少々対抗心が行き過ぎたところがある。

 そんな具合で混沌とした空間に、転機が訪れるまでに、そう時間はかからなかった。十分後、二人の女性が飛び込んできた。
 閉め切られた扉を勢いよく開き姿を現した、その女性らの顔を見て、人質達は歓喜の表情を浮かべた。彼女らの主君である謙信の勇壮な姿が、そこにあった。

 謙信は広間の人質達に視線をずらし、次いで中央にいる男に目を向け、叫んだ。
「叔父上!」
「動くな」
 三笠衆の頭目が、静かな声で警告を発した。声を合図として、人質を取り囲む三笠衆が、一歩輪を狭めた。刀のきらめきが虎子達の喉元に突きつけられた。
 部屋の空気が、一気に張り詰めた。

「(……やはり)」
 愛は状況を観察して頭をフル回転させていた。
 三笠衆は正面に一人、人質の回りに八人。計九人。
 皆、それなりに腕が立つようだ。謙信ならば全員を蹴散らすなど造作も無かろうが、少々散らばりすぎている。最初の一人を倒した時点で、人質は全員殺されているだろう。

 一応、最悪の場合にだけは備えておいた。愛の合図ひとつで、この天守閣は崩壊する。混乱に乗じ県政と三笠衆を排除することが可能だ。
 だができればそんな事態は避けたかった。自分と謙信はともかく、手と足に枷を嵌められた人質達の中には、瓦礫を避けきれず巻き込まれて命を失ってしまうものもいるはずだ。
 謙信の哀しみの顔を見たくはない。

 城への突入直前も、人質を盾に取られた場合の対応について、謙信はただ『待つ』とだけ言っていた。ランスを信じて。
 だから自分もぎりぎりまで行動を起すことは出来ない。何かあった時のために、意識のトリガーだけを昂らせておきながら、愛は謙信と共に頭目を睨み付けた。

 謙信は動かない。表情を変えない。変えてはならない。今はとにかく、時間が欲しかった。ランスが何かをする時間が。
 この場にいるかどうかすらわからぬが――それでも待ち続けると、謙信は決めていたのだ。
「そのままだ。刀を置け」
 男が言った。謙信は言葉に従い、刀を板の間に落とした。
「では、こちらに三歩近づけ」
 腹心である直江愛から引き離すためだ。謙信の命を奪おうとすれば、直江愛は手段を選ばず抵抗に出るだろう。
「……」
 しかし謙信は従わない。
 微動だにせず、頭目の男をじっと見据えた。
「どうした」
「……」
 待つ。ランスをだ。ランスはなんとかする、と言った。だから大丈夫だ。謙信は自分に言い聞かせ続けた。心臓が脈打つ音が、やけにゆっくりと聞こえた。
 だが、そんな謙信をあざ笑うかのように、頭目の男はわずかににやつくと、部下に顔を向けた。時間稼ぎを見破ったのだ。
「おい、一人殺せ」
「なっ!?」
 三笠衆の言葉に慌てたのは、謙信達ではなく、県政だ。県政は怯えていた。今自分の命を保っているのは、まぎれもなくこの人質達なのだ。ここで人質を減らすことは避けたかった。
 だが県政の意思はもはや三笠衆には通じない。命令を受けた部下が人質達を見渡す。すぐに、先頭の二人に目を向けた。虎子と勝子が身をびくんと震わせた。
「貴様だ。陰陽師」
「(きかれてたーっ!?)」
 心で悲鳴を上げる虎子の首根っこを掴んで、三笠衆が刀を突きつける。自害を悩む間すら与えられなかった。男は無感情に刃を振り上げた。虎子はとっさに目を瞑った。
 愛が舌打ちをした。もはや限界だった。
 階下に爆破の合図をするため、懐に手を伸ばす。
 と、そのとき。
 だん、と、板間を踏みしめる音が轟いた。
「――!」
 それは、謙信が右足を強く踏み込んだ音だった。
 県政と三笠衆の男達が、いっせいに謙信に振り返る。
 踏み込んだ謙信は、しかしそこで動きを止めていた。自らの足をただじっと見詰めていた。信じられないものを見たとでも言いたげに、大きく目を見開いていた。

 しばらく油断なく謙信の様子を観察していた頭目は、謙信がそれ以上動かないところを見て取ると、ふたたび命令を下そうとした。
 だが、その直後。再び、男を阻む者がいた。
 命令の声と同時に、大声が広間に響いた。
「ここかー!」
 謙信が振り返ると、そこに、待ち望んだ光景があった。

 階段を駆け上って飛び込んできたランスは、ぜーぜーと息をはき、汗をかいていた。貝から佐渡という長い距離を、慣れぬてばさきの二人乗りで駆ってきたためだ。全身が汗だくだった。
 ランスは息を整えつつ謙信達と、次いで人質達を見やると、満足そうに首を縦に振って頷いた。
「ふー、流石に疲れたぞ」
 ランスの言葉は、全てが終った後のように弛緩していた。
「ランス殿……?」
 愛は引き金にかけた指を止め、ランスを見やった。
「おー愛ちゃん。元気だったか」
「言ってる場合ではっ」
「あ、そっか。先に片付けとこう」
 ランスは愛を横見にしてにやりと笑うと、天井に顔を向け、歌うように言葉を発した。
「奥さんこっちらっ」
 間をおかず、天井から威勢のよい掛け声が響く。
「米屋でござる!」
 声が終らぬうちに、ランスのそばに影が飛び降りてきた。と同時に、床板が激しく悲鳴を上げる。硬質の衝突音が幾重にも重なり、ダダダダダダン、と、広間に連続して響いた。
 音が止んだころに、影はくるりと回って印を組み、ポーズを取った。布地の少ない着物と、指と指の間に挟んだくないは、影がくノ一であることを示していたが、忍者にしてはあまりに芝居がかった動きだった。
 こんな忍者はJAPAN広しといえど、滅多にいるまい。鈴女であった。
「ににんにん、伊賀忍鈴女、ただいま参上!」
 鈴女は額に人差し指と中指を当て、韻を踏んで名乗りを上げた。人質達や三笠衆の奇異の視線が、鈴女に集中する。名乗りを上げる忍びが、どこにいるのだ、と。

 鈴女はそ知らぬ顔でランスに振り返り、ウインクをした。
「やー、いいでござるな。一度やってみたかったでござるよ、こーゆーの」
「うむ、なかなか似合ってたぞ。がははははは」
「むほほほ」
 周囲の緊張を無視して、二人は声を合わせて笑いあった。
 二人以外の全員が、展開についていけず静止していた。
 そんな中最初に立ち直ったのが、虎子だった。
「(……うごける!)」
 鈴女の出現を黙って見守っていたのだが、衝撃で手をびくんと動かしたせいで、気付くことができた。右腕が動く。左腕も動く。どういうわけか、縄が切れている!
「(よーし)」
 そのことに気付いた虎子は、片手でこっそりと印を組んだ。自分を掴む男に、式神をぶつけるのだ。媒体が無いので低威力だが、密着して撃てば人間一人の動きぐらいは止められるだろう。
 勝子を出し抜ける。もとい、謙信様のお役に立てる。
 心の中でにやつきながら、虎子は印を完成させた。
「えい!」
 気合の言葉と共に、念を男にぶつけた。男はぶっ倒れた。
「へ?」
 あまりの簡単さに不思議に思う虎子だったが、その理由を考える前に、もう一つの異変に気付いた。
 なにか、ヘンだ。すーすーする――と、気付いた時にはもう遅かった。
 印を組んだせいで縄がほつれたため、はらり解けて虎子の腕から落ちた。同時になぜか、虎子の上衣もはだけた。白めの肌とやや大きめの胸が、あられもなく外気に晒された。
「へっ!」
 続いて、スカートとショーツが床にすとんと落ちた。
「な、な、きゃあーーーーっ!?」
「なっ!? ひあっ!」
 虎子の様子に慌てて身体を動かした勝子も、また同様だった。縛られたはずの両手両足が自由に動くことに気付き――次いで、背中から腰にかけての素肌が、空気にじかに触れる感触に血の気が引いてくる。
 勝子はとっさに胸を覆った。だが努力虚しく、ちょうど風が窓から吹き抜けた。すると勝子のスカートと下着がするりと落ちた。まだ男に見せたことのない秘部と桃尻が、惜しげもなくあらわになっていた。
「な、なにこれっ!?」
「やあっ、やだぁ!」
 他の人質の女の子達も、いましがたの突風により、衣類を撒き散らしていった。
「縄だけじゃつまんないので、サービスでござる」
 と、鈴女が得意げに言った。鈴女の手裏剣は、囚われの女の子武将達の縄、そして服と下着の留め部を正確に射抜いていた。正に神技的な腕だった。
「おおー、グッドだ!」
 黄色い声と肌色の肢体が乱舞する大広間の様子を目にして、ランスは鼻息を荒くする。そんなランスの横で、鈴女が得意げに手裏剣を振っていた。
「馬鹿な。見張、何をしているッ!」
 頭目が天井を見上げて叫んだ。人質の奪還工作や破壊工作に備え、屋根裏には十人単位の忍者が潜んでいるはずだったのだ。だが返事が無い。
「無駄でござるよ」
 鈴女が代わりに答えて、ぱん、と手を叩いた。合図と共に人質を囲んでいた男達全員が倒れ伏した。彼らの脳天には、手裏剣が深く突き刺さっている。
 さらには上方からも、どさり、どさりと鈍い音が立て続けに響いてきた。
「全部、死体でござる」
「なっ!?」
「ちなみに」
 鈴女は人指し指をゆっくりと立てて、頭目の男に真っ直ぐに向けた。哀れむような視線と共に、小悪魔的に口尻を吊り上げて笑いながら、鈴女は言った。
「あんたもだけど」
 瞬間。
 ぱん、と、乾いた破裂音が部屋に響いた。
 男は額に穴を開け、悲鳴すら発せず倒れた。
「……」
 倒れた男の背後から、愛が姿を見せた。その右手には切り詰められた短筒が握られていた。柚美に特別に用意してもらった、護身用の銃だ。
 鈴女は愛ににっこりと笑いかけ、親指を立てた。
「タイミングばっちし。ぐっじょぶでござる」
「機を見てせざるは、勇無きと言います」
 三笠衆の死体を見渡し、全滅したことを確認してから、愛は銃を懐にしまった。
 この自分が、こんな出来の悪い――いや、良すぎる芝居に付き合わされてしまうとは。愛は深いため息をついた。ともあれ、危機は去ったのだ。今はそれを喜ぶことにした。

 ことの成り行きを呆然と眺めていた県政は、弾かれたように動き出した。わたわたと転びそうになりながら、県政は鈴女の足元にすがりつく。
「おろ?」
「ワ、ワシは悪くない! だから、殺さないでくれっ!」
「叔父う――」
 見かねた謙信が口を挟もうとした時。
「うるさい死ね」
 ランスがカオスを無造作に振り下ろした。
 紫色の刃が容赦なく県政を両断した。
 野太い悲鳴を残して、県政はあっけなく絶命した。
「――」
 足元に転がる叔父の死体を見て、謙信はまた動きを止めた。表情は固まったままで、何かを読み取ることはできない。ただ、わずかに揺れる瞳だけが、その感情を映し出していた。
「がはははは、一丁上がりだ。さーて」
 そんな県政と謙信を放置して、ランスは広間の奥に進んでいく。いつもの戦後処理のためだ。騒ぎはすでに集束しており、裸の女の子達は部屋のすみっこでかたずをのんで事態を見守っている。
 ランスにとっては美味しそうな果実が目の前に実っているのと同じことだ。
 目を血走らせるランスだったが、その背中を鈴女がちょんちょんと突付いた。
「ランス、ランス」
「なんだ?」
「ほっといていいでござるか? あれ」
 鈴女は背後の放心している謙信を指差して言った。足元で倒れた叔父の顔を、じっと見つめている。
「いいのだ。ショックなんだろうが、謙信ちゃんはちゃんと後でなぐさめてやる。ぐふふふ」
「んー」
 ほんとにいいのかなあ、と疑問を覚える鈴女であった。身内の不始末は身内が付ける、これは忍者の世界では常識である。
 が、すぐにまあいいや、と思い直した。どのみち自分の知ったことではないし。
「ど、れ、に、しようかなー」
「あんまり時間ないでござるよー?」
 品定めを再開したランスに、鈴女がふたたび忠告する。なにしろ時間が無い。ランスがいなければ、作戦は始まらないのだ。のんびり遊んでいる場合ではない。にも関わらず無言で出てきてしまったため、今頃マリス達が血相を変えてランスを探しているだろう。
 これから全速力で戻っても、出陣に間に合うかどうか。
 ランスは鈴女の指摘でそのことを思い出したらしく、うなり声を上げつつ、苦しそうに言った。
「ぐむむ。仕方ないな、厳選してその分楽しむことにしよう」
「やるのは変わらんでござるか」
「当ー然。がはははは」
「むほほ。ランスはさすがでござるなあ」
 無意味に胸を張るランスを見て、鈴女も楽しそうに笑った。

 一方で、愛が謙信のそばに寄り添っていた。
「謙信? どうしたの?」
 叔父の最期が、それほどまでにショックだったか。と、気を使う愛に、謙信は涙声で答えた。『ちがう』と。
 声をひそめ。ランスに聞こえないように気を使いながら、謙信は言葉を続けた。
「……ただ……くっ……ランス殿に、申し訳なく……」
「はあ?」
 ハンカチを取り出しつつ、愛は怪訝そうに問い返した。理屈がさっぱりわからなかった。
 謙信は涙をぬぐわれつつ、言葉を紡いだ。
 刃が抜かれたときに、足が動いてしまったことについてだった。
「私は……ランス殿が来ないのではないか、と、一瞬考えてしまっていた。私ごときを、助けに来る訳がないと」
 謙信はちらとランスを見やった。そしてまたぽろぽろと涙をこぼし始める。やがて耐え切れず、といった風に顔を落とし、愛にふたたび語りかけた。
「おろかだった。あの人が……約束を破るなどと。そのうえ、私が決着を付けねばならぬ、叔父上までも……」
 愛は呆れた。ばからしくなるほど呆れた。
 勝手に足が動いた理由は、部下を想う心が謙信を突き動かしたからだろう。
 だいたいあの時動かなければ、虎子は殺されていたではないか。
 というか、その直前までまだランスが助けに来てくれると信じ込めている方がおかしいのだ。そういうのを世間一般では、べた惚れとか、盲目の愛とか、完璧な信頼とか呼ぶのだ。
 県政を斬り殺したのも、謙信の心情を慮ったからではなく、単に邪魔だったからだ。

 反論が次から次へと大量に浮かぶが、口には出さなかった。長い付き合いから、謙信がこんな意見を聞き入れるわけがないことを、よく理解していたからだ。
 そうとは知らぬ謙信が、落ち込んだ声で言った。
「私は……まだまだ未熟だ」
 盲目の恋というものを久々に目にして、愛はもういちど深くため息をついた。

 しばらくの間の後、謙信を見守る愛に、ランスが声をかけてきた。
「おい、愛ちゃん」
「ちゃん付けはやめてください。なんですか」
「この子達を保護しとけ」
 ランスが広間の中央を指し示す。着物の残骸で秘部を隠しつつ、六人の女が固まって座り込んでいた。彼女らは一様に涙目で身を縮こませてていた。
「わかりました」
 愛は頷いた。とりあえず破れた着物を繕う手伝いをしようとして――はたと止まる。見慣れた虎耳と、見慣れたしっぽが足りない。どこに消えた。
 そう思い部屋の奥を見やると、本人達が喧々囂々と口げんかを繰り広げていた。話題はどうやら、先程の騒ぎでお互いが果した功績の大小についてのようだ。
 そのバイタリティに呆れつつ、愛はランスに問いかけた。
「あの子達は?」
「うむ、あの子らは特別に手がかかりそうだからな。俺様が保護してやる。ぐふふふ」
 理屈は合っている。だがその果てしなく下劣な笑い方に、愛は猛烈に嫌な予感を覚えた。次の瞬間、はっ、と、何かに思い当たる。愛は顔を落とし、足元の六人の顔にもう一度視線を滑らせていった。
「あの、愛様?」
 どの子も上杉が誇る勇猛な武将達だった。が、ひとつ共通点がある。大変失礼ではあるが――残った二人に比べ、器量が悪い。
 眉をひそめる愛をよそに、ランスは残った二人に近づいていく。その途中で一度立ち止まり、思い出したように言った。
「あと、謙信ちゃんと一緒にすぐ貝に戻れ。一気に潰すことにした。じゃ、頼んだぞー」
 一方的に言ってから、ランスはずかずかと奥の間に踏み込んでいく。言い争いを続ける虎子と勝子に一直線だ。
「ちょ、待ちなさいっ!」
 説明になっていない説明を問いただそうと、愛はランスを追いかける。しかし、途端に奥の間の障子がぴしゃりと閉まり、ランスと愛を遮断した。障子の向こう側から、鈴女のくぐもった声が聞こえてきた。
『安心するでござるよー』
 何がだ。
『ランスはわりと優しいほうでござる』
 何と比べてだ。
 お気楽な鈴女に心の中で突っ込みを入れつつ、愛は襖の引手に力を込める。開かない。何か細工をしているようだ。無理矢理ぶち破るため銃を取り出しかけるが、そんな愛を止める者がいた。
 泣き止んだ謙信である。
「愛。どうした」
「えーと、虎子と勝子がですね」
「二人はランス殿が介抱してくれている。それより、速く貝に行こう」
 いいのか。
 ランスが何をしようとしているか説明しようかと思ったが、すぐにやめる。謙信に不要な心配はかけたくはない。
 それに――と、愛は思い直す。確かに心配ではあるが、謙信を危機に呼び込みながらお気楽に言い争いをしている二人を、必死に助ける必要があるとも思えない。
 きっと、いい薬だ。とりあえずそう思い込むことにした。
 二人には申し訳なかったが、愛にとって謙信は絶対なのだ。せめて鈴女の言葉が真実であることを祈りつつ、愛は謙信と共に広間を後にした。

 階段を足早に下りつつ、謙信は独り言のように呟いた。
「私は疑念にまみれているかもしれない。それでも、可能な限り、ランス殿を信じ続けたいと思う」
「なんでです」
「それが、ランス殿に報いる道だと思う」
 そこまで言ってから、謙信は愛に視線を向けた。
 揺れる視線からは、不安な感情が伺える。
「愛。私は間違っているか」
「それは自分で考えなさい」
 愛はそっけなく答えた。安易に肯定はできなかった。
 結果だけを見れば、謙信は間違っていなかったのだろう。だがこれからもランスを盲目的に慕い続けることが正しいとはとても言えない。愛の立場にしてみれば、理屈の伴わぬ結果はただの偶然に過ぎないのだ。そこを覆すということは、軍師としての自分を否定するのと同じことだ。

「ただ」
 それでも一つだけ言えることはあったので、愛は言葉を返した。
「間違っていようといなかろうと、私はあなたのそばにいますが」
 自分のポリシーそのものがおそろしく矛盾していることは承知していた。だがそんな矛盾の解消など、とうの昔に諦めていた。どうしようもないことだ。
 愛は既に理解していた。つまるところ、愛とはそういうものなのだと。
 
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