ランスがいない。そのせいで、武田家中は大騒ぎになっていた。自分が連れてきた女の子を忘れて、自分が考えた作戦を放っぽり出して、一体どこをほっつき歩いているのか、と香は頬を膨らませていた。
まさか大陸に帰ったわけではないだろうが、自分の立場というものを自覚してほしかった。もはや武田の、というよりJAPANの命運は、ランスの両腕にかかっているのだ。
「まったくあの人はっ」
不満をもらしつつ、廊下を早足で歩く。
そのランスが連れてきた少女と、会うためだ。
自分と同じ名前の女の子。織田信長のたった一人の妹。辛い戦いに赴こうとするその少女とは、一度話をしてみたいと考えていた。
そうして縁側を歩いていると、曲がり角に差し掛かったところで、香に声をかけてくるものがいた。振り返るとそこには、背が高く、顔にしわを刻み込んだ男がいた。
「おや、おはようございます〜」
「あ、義風さん」
香は義風に笑顔を向けた。
香にとって、義風はもっとも心を許せる相手の一人だ。香が小さな頃から、その風貌は少しも変わっていない。立場と肩書きに似合わず温和で気さくな義風は、家臣というよりは友達に近い存在だった。
兄の不在時に、香が寂しく思っていたときには、いつも義風がどこからか現れ、おもしろい話を聞かせてくれたものだ。
義風はいつものように、間延びした口調で言った。
「お散歩ですか〜?」
「いえ、織田の香姫様とお話しようと思いまして」
「さようですか」
それから義風は、それはよいですな、と続けた。にこにこと笑ったままだった。緊張を緩め、安心感を与えてくれる、おおらかな笑みだった。つられて、なんとなく気分が軽くなってくる。とげとげしい気分がなくなり、世間話でもしたい気分になる。
義風と話すと、いつもそうだ。きっとこれも義風の話術なのだろう。
そんなことを考えつつ、香は義風に向かって言った。
「ランスさん、いったいどこに行ったんでしょうね」
「さて。あの方もなかなか、予想のつかぬところがありますからなぁ。でもきっと、大丈夫ですよ。鈴女も一緒でしょうし」
鈴女。誰のことだろうと記憶をたどると、ごく最近に耳にした名前だった。あれは確か、軍議の時だ。ランスの側にいた、呆れるほど大胆な着物の女性がそう名乗っていた。
「あの方と、お知り合いで?」
「ええ、ライバルなんですよ〜」
「……え?」
疑問に思う。義風は風魔の頭領であると同時に、天下に名だたる武田家の四将軍だ。そんな義風にとって、自分と同程度の年頃の女性がライバルとなるとは考えにくかった。
香は一度だけ、義風が本気を出したところを見たことがある。背中に凄まじい圧迫感を感じて、近づくことすらできなかったが。もしもあの時義風の前に回りこめていたならいったいどんな顔が見れたのか、というのは、香にとって永遠の謎の一つだ。やはりいつもと同じように笑っていたのだろうか。
などと思考を脱線していると、一人の男がささっと義風に近寄ってきた。
風魔の伝令のようだった。
「ふむ?」
伝令は香に一礼だけすると、義風に近寄り、何事かささやいた。すると義風は顎に手を当てて考え込む。その間も、笑顔は保ったままだ。
やがて義風は深く頷くと、香に振り向いて少し姿勢を正した。
「香様。少々、江戸に行って参ります」
江戸。北条の本拠地でもあるその地は、東の都と称えられる。
「ランス殿や織田の香姫様には、よろしくお伝えくださいな」
軽やかな足取りで義風は縁側を降りて、その場を後にしようとする。香は思わず呼び止めた。確かにそっちに行けば江戸だが……軍舎は逆だ。
「あの、お一人でですか?」
単独行動だ。実力を信用しないわけではまったくないが、いくらなんでも危険ではないだろうか。香の脳裏に不安がよぎった。甘い考えだと自分でも思うが、大事な人をまた失いたくはないのだ。
義風はゆっくりと頷いた。
「ええ、そのつもりですよ〜。こういうのは一人の方が楽なのです」
「あの」
誰かを護衛にしていくべきでは――と言いかけて、香は口をつぐむ。心配なのはやまやまだが、少なくともこんな任務にかけては、義風は間違いなくJAPAN屈指のプロだ。素人の自分が口を挟んでも、逆に迷惑だろう。
それでも、武田家のために任務を果そうとしている彼に、香は何か言葉をかけなくてはならない気がした。自分は国主なのだから。少なくとも兄ならきっと、そうしただろう。
だが、どうすればいいのだろう。わからない。
香が頭で言葉をこねくり回しているのを、義風は微笑みを浮かべていて待っていた。やがて香は顔を上げた。ひとつひとつの言葉に意思を込めたいと思った。
「どうか、お気をつけて、ご武運を」
結局、この程度しか思いつかなかったが。
「ご立派になられましたなぁ」
香の言葉を受け、義風は感慨深げにつぶやいた。何かを懐かしむかのような口調だった。きっと、香が子供のころのことを思い出しているのだ。不快ではないが、とても照れくさかった。
「では、約束いたすとしましょう」
義風は敬礼をとって見せた。
そして、それまで以上に落ち着いた口調で、話し始めた。
「ご心配ありがとうございます。不肖この義風、香様を残して逝くことはございません。すぐに用を済ませ、お土産を手に戻っくるとしましょう……と」
そこまで言うと、義風は肩を揺らして笑った。
「ははは、柄ではありませんでしたなあ」
「い、いいえっ」
そんなことはなかった。現に香は、圧し掛かる責任感を先程よりも段違いに軽く感じていた。義風が言うのだから、絶対に戻ってくるのだろう、と信じることができた。
ノックをしても返事が無いので部屋に入ると、少女が布団片付けていた。小さな背丈に、とても長い髪を流しているその少女は、敷布団をいっぱいに抱えて、押入れに片付けようとしていた。
この少女、織田香には、かわいらしいという表現が最も似合う。ランスの案内で初めて顔を合わせたときには、疲れのためか言葉に元気がなかったが、多少は回復しているだろうか。
と、黙って見ているのも失礼なので、香は挨拶をした。
「おはようございます」
「あ……お、おはようございますっ。すこし、まってください」
少々お待ちを、と言って、少女は布団をばふんと置いた。そして、押入れから座布団を取り出して、緊張した様子で香に差し出した。
「あの、どうぞ」
「ありがとうございます。居心地は、いかがでしょうか」
「は、はい。とても良い部屋です」
空いていたのは、離れの客室だ。一番豪華で広い部屋を用意したのだが、どうやら気に入られたようだったので、香は一安心して小さく笑った。
「片付けぐらい、女中さんに任せればよいのに」
「ええ。でも、あんまり体を動かさないと、いざというときに素早く対応できないです……と、教えられましたので」
感心した。幼い身の上で、心は立派な武家の娘だ。
「香様は」
「香姫様は」
被った。前半部分が、共鳴して部屋に響いた。
二人は揃って口をぽかんと開けると、同時に笑い出した。
「なんだか、へんな気分です……」
少女が言った。
「わたしもですよ」
香も言った。また笑いあった。幼い少女のあどけない笑顔に、香は安心感を覚えた。
考えてみれば、同年代――というには少々離れているが、とにかく気軽に話せる女の子と会うのは初めてだった。
「あの、そういえば」
それは相手も同様だったらしい。尾張の姫は、積極的に香に話しかけてきた。香はしばらくの間、妹ができたような気分で、世間話に興じた。
世間話にふけったの中で、少女の切り出した『ご趣味はなんですか』というお見合いのような質問に対し、香はにんまりと笑った。
趣味の話になると、香はがぜん張り切りだす。すぐそばの倉庫の中、義風に内緒で作ってもらった部屋に、少女を案内して、
「どうぞっ」
と、すばらしい趣味を布教すべく、コレクションを見せ付けた。畳の上に、絨毯。そしていろとりどりの貝。貝。貝。貝がガラスのケースに収められ、絨毯の上で輝いていた。
「うわあー」
少女は感嘆の声を上げた。
「すごいです」
「ありがとうございますっ」
香は頬を緩めて返答する。誉められたこともそうだが、こんな風に自慢する相手がいること自体が、嬉しかった。
「京の公家様には、貝を集めていらっしゃる方が多いようですが、これほどのコレクションは……なかなかないでしょう」
「そうなんですか? よくわからないです」
武田は都からまだまだ遠い。公家についてはほとんど情報が入ってこないが、文化的には憧れの対象である。そんな人達にも匹敵するコレクションというなら、なんとなく鼻が高い。
「ええ。貝には、貝をお集めされる方は、少ないんですか?」
残念ながら、領地に同志はいない――と、言おうとしたところで、香はぐっと言葉に詰まった。一人いた。あまり話題にしたくはなかったが、共通の知り合いでもあることなので、香はやや声を潜めつつ、正直に話した。
「ランスさんも、集めているようです」
「ランスさんが?」
少女は心底驚いた風であった。当然だろう。自分も驚いたものだ。どうも自宅には相当のコレクションを持っていて、暇があれば愛でているらしい。
と続けると、少女は更に目を丸くした。
「もっと、その、活発な方かと思ってました。意外です」
それは間違った認識ではない。香も同意した。
「たしかに。活発というか……単に、破廉恥というか、とにかくあの人は、それはもうとんでもない人ですね」
「貝以外にも、女性が好きとお聞きしましたが」
「それはもう」
はっきり言って、近寄るだけで穢されそうだ。
「やっぱり、そうなんですか……」
「どうかなさいました?」
なぜか顔を沈めた少女に、香は問いかけた。
「その……ランスさんは私のことを、JAPAN一の美女だと、勘違いしておられたようで」
本当はぜんぜんそんなことはないんですけど、と小さく付け足した。香は少女を改めて見下ろした。そして、その評判は間違っていないと思う。
この子は間違いなく将来美人になる。窓から差す朝の日差しを浴びて明るい紫色に輝く髪は、あきれるほどに美しい。整った顔立ちに、あどけなさを残しつつも、凛とした表情。
はっきり言って、可愛い。
「……はっ!」
思わず抱きしめそうになっていたことに気が付いて、香はぶんぶんと首を振った。さすがに失礼だろう。仮にも織田の姫なのだ。
「たいへん楽しみにされていたそうです。とても、申し訳なく思ってます」
少女は沈んだ顔で言ったが、香は安堵していた。
とにかく変なことはされなかったということだ。
香は笑って言った。
「気になさることはありませんよ」
「お礼もできず、すいません」
「そんな、とんでもないです」
むしろ貴重な情報をもたらしてくれたことに、武田の方から礼をしなければならないぐらいだ。香はそう続けようとしたが、その前に、少女から爆弾発言が飛び出した。
「でも、一度は『身体で礼をしろ』といわれたのですが」
「えええええっ!?」
ほのぼの気分が奈落の底に転げ落ちた。
香は手足をばたつかせて、思わず問い返した。
「か、かかか、からだって、あの、そういう意味ではなくて、ああいう意味でですかー?」
「おちついてください」
「落ち着いてる場合ではありませんのですよー!? あ、あ、あの人はーっ!」
驚きと怒りと、そしてなぜか苛立ちを覚えた。なぜか、と考えるような間が無かったのは、幸いだった。この感情が嫉妬だということに気付かなかったからだ。
「大丈夫ですかっ!? お医者様を呼びましょうか!?」
「え……いえ、別にそんな、ひどいことはされてませんよー」
「そ、そうですか? 指一本触れなかったですか?」
流石にそこまでの外道ではなかったか、とやや安堵する香である。
が、少女はしばらく考え込んで、
「胸をすこし、さわられましたけど」
小さな唇であるまじきことを言った。
安堵の底が抜けて、香は頭を殴られたような衝撃を受けた。
「むねー!?」
香の思考が沸騰した。それが静まるまでには、少女が何度も説明を繰り返し、誤解をとくだけの時間が必要だった。
「それにしても……」
怒りさめやらぬ、といった感じで香が言った。
ランスには問い詰めたいことが山ほどできたが、それはそれとして、ランスがいなければ作戦は始まらない。一体どこに行ったのやら。
出陣の準備は既に整っている。馬場将軍などは、既に完全武装でじっと時を待っているのだ。よくも暴発しないものだ、と不思議に思えるほどである。
と、憤慨する香の視線に、ちょうど留まるものがあった。
「あれは……」
小さな武者鎧が、倉庫の片隅に置かれていた。赤と茶を貴重としたその鎧は、ぴかぴかに磨かれていて、まだ一度も使われていないようであった。
そして香は思い出した。ランスが戻ってくれば、すぐに戦が始まることを。それは即ち、この少女が辛い戦場へと戻ることを意味していた。
愉快な容姿の妖怪爺は涙を流して止めていたが、時が来れば香姫は織田香として戦場に立つのだ。何週間も前に、既に決めていたようだ。
香は少女を見下ろした。まだ幼いと言える少女に、託すものがあまりに大きすぎはしないか、と。不安と申し訳なさを覚えた。
「……あの」
「はい?」
そこで少女は何かに気付いたらしく、ああ、と唇を僅かに震わせた。香の意図に気付いたようだ。小さな鎧と小さな姿を交互に見比べらていれば、それも当然だろう。
「お気遣い、ありがとうございます。でも……大丈夫です」
そこで息を呑んで、少女は話し出した。
「尾張の人たちはいま、とても苦しめられています。何人も、何百人も、犠牲になりました。兄の姿をしたものによって。兄は……きっと……もう、いません。どこにも、いなくなりました」
少女は懸命に、といった風に声を震わせ、それでもはっきりと言った。
「だから私は、戦います。尾張の国主として」
香は泣きたくなった。十代前半にも届かぬのではないかという少女が、どれほどの地獄を見てきたのだろう、と。
しかし涙はこらえた。その前にやることがあった。この少女の言葉の節々から、一つの想いが染み出していたからだ。
「――ひとつ、間違っています」
香はきっぱりと言った。黒髪の少女が、香を不思議そうに見上げた。
根拠がないのは承知していた。それどころか、現実的に考えれば、逆の可能性しか残っていないということも。既に状況は把握し、検討を重ねているのだ。検討の結果、透琳ですら何も考え付けなかったのだ。その困難さはきっと、想像を絶するだろう。
それでも香は言葉を続けた。
「きっと、会えます」
世界は残酷なことわりに満ちている。みじめな人間がどれほどあがこうと、絶望は何の躊躇もなく押し寄せてくることを、香は身を持って知っていた。
にも関わらず、言わずにはおれなかった。兄ならば、迷いなく断言していただろう。言葉はきっと、現実との釣り合いを取るために存在しているのだから。
「大丈夫ですよ。香姫さんは、お兄さんときっとまた会えます」
香はにっこりと笑って言った。この健気な少女の望みが、本当に叶う日が来ると、すべての疑念を封じて無理矢理にでも本気で信じることにした。
「わたしは、そう信じています」
罪深いことだろうか。だが、信じることで誰かの心がほんの少しでも救われるのであれば、むしろ信じぬ理由が無かった。諦めるのは、全部が終ってしまってからだ。
涙をこらえるようにして、香姫は微笑んだ。
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