ゆっくりと目を開けて、戦姫が言った。
「出るか」
戦姫は戦意に身を滾らせていた。自然と、口もとから笑みがこぼれる。今までの小競り合いとは桁が違う、本物の戦の匂いがそこかしから漂ってきていた。
ここは武田本陣。そして敵軍は、もうすぐそこにまで迫っている。
まむし油田と貝の国境に、川を挟んで武田軍と魔軍が対峙していた。幾万にも上る魔物兵は、よく取れた統制のもと陣を組み、その先鋒が、川を渡っていた。弓と式神の攻撃を受けつつも、その進軍が止まる気配はない。
魔物達は今まさに武田軍に食いつこうとしていた。
「……ふふ」
戦姫はもう一度笑った。匂いでわかる。血と汗と熱とに塗れた戦が、もうすぐに始まる。その時に、自分が最前線にいるために、わざわざ戦姫は信長討伐軍から外れたのだ。
「千姫さま」
「ふむ?」
声に振り返ると、そこには軍装の少女の姿があった。
戦姫は彼女の名をよく知っていた。武田香。武田の国主であり、この戦の総大将だ。
「いかがした」
「なぜ、残られたのですか?」
「ん?」
香の問いかけに対し、戦姫は不思議そうに首を傾ける。肩を槍でとん、とんと叩く。
香は言った。
「ランスさん達に、ついていった方が……」
「こちらの方が、面白そうだった。それだけだよ」
戦姫は遠く西を見据えた。平原に、地鳴りが轟いている。万を超える魔物の進軍は、前線からまだ離れた本陣にさえ、その音を届かせていた。香もまた、戦姫と同じように西を見据えた。そして感じ入ったような口調で言った。
「千姫さまは……すごいですね」
「なぜ?」
「まるで、戦を楽しまれているかのようです。わたしは……正直に言うと、震えがまだ止まりません。大将だというのに」
香は、背後の部下たちに気取られぬように小さな声で言った。戦姫の前に、そっと両手を差し出す。細かく震えていた。どうしても滲み出てしまう、恐れのためだった。
「どうすれば、恐れずに済むでしょうか」
戦姫は頬に手を当て、苦笑いをした。
「わからぬよ」
あっさりと答えてから、戦姫は言葉は続けた。
「戦の心得など、私は学んだことがない。気がついたら、こうなっていた。戦場に生きるわれらはひょっとすると、赤子のころからこういう生き物だったのかもしれん」
「そうですか……」
「ただな」
戦姫はいつもと変わらぬ落ち着いた声で言った。
「私は、貴方を凄いと思うぞ。指揮官たるものが、戦場に勇ましく立てば、兵達は臆すことがなくなる。それを戦えぬ身で成し遂げるなど、なかなかできることではない」
そう言って、戦姫は香に背を向けた。戦場に向かうためだった。
香はこくりとうなずいて、静かにつぶやいた。
「ご武運を」
戦姫は左手を軽く上げて香に応えた。そして、最前線に向かって駆け出した。
魔軍の右翼と、武田軍の左翼が、最初に激突した。
魔軍は正面に緑の魔物兵と巨人達を押し出し、その背後から遠距離攻撃を加えてきた。炎が空から飛んでくる。投槍が雨あられと降ってくる。巨人が、とてつもない大きさの棍棒を振り下ろし、足軽達を叩き潰そうとする。
人間の兵法の常識をはるかに超えた熾烈な攻撃の前に、最初に立ちはだかったのは、旧上杉兵達だった。
「敵よ! 迎撃して!」
「はっ!」
額から汗を流しつつ、その少女は忙しく伝令を放ち続けていた。少女の名は勝子。元は上杉軍の足軽隊を率いていた、女の子武士だ。彼女は最前線となった武田軍左翼で、足軽達と弓隊の指揮を取っていた。
戦況は秒単位で動き続けている。一歩でも対応を誤れば、即座に自軍は壊滅するだろう。
と、勝子に一人の伝令が駆け寄ってきて、叫んだ。
「飛行兵、西より接近! 数は三百!」
「第ニ鉄砲隊投入! 八割は落として!」
「勝子様ぁ!」
「今度はなにっ!」
「最左翼、破られました! 敵軍、来ます!」
最悪の報告を聞いて、勝子はその場所を見た。
「うわあああ!」
「逃げろお!」
足軽達の小隊長が、巨人の群れに踏み潰されたのを皮切りに、我先にと逃げ出そうとしていた。勝子は舌打ちをした。力で勝る魔物を相手にして、人間側が隊列と統制を崩せば、その時点で勝ちはない。
勝子は叫んだ。
「全軍、一時たい――」
そのとき。
勝子の背後から、別の声が聞こえてきた。
「いっけえーーー!」
数百もの小さな小さな式神たちが、勝子の横を通り抜けて破られた前線に向かって飛んでいった。式神達は魔物達の周囲をめぐり、紙の辺を刃に変えて、巨人の肌をずたずたに切り裂いていった。
陰陽師の式神攻撃だった。
勝子が振り返るとそこには、勝ち誇った笑みを浮かべる虎子の姿があった。
「貸し、ひとーつ!」
「く……!」
「ふふ。もーちょっと遅かったら、死んでたね。勝子」
「うるさい。もともとあんたが遅いのがいけないんでしょうがっ!」
と、勝子が反論する。
もともと勝子の足軽隊が、虎子の陰陽隊の準備時間を稼ぐ、という作戦だったのだ。
合戦前にそう指示された時、二人はなんとか反論を試みようとしたのだが、冷たい視線で自分たちを睨む直江愛を前にしては、引っ込むしかなかった。
虎子は勝子を見下して、からかうように言った。
「でも貸しは貸しー」
「んぐぐぐぐぐ!」
そのまま行けば掴み合いになりそうなほど、子供っぽいやり取りだったが、幸い、そんな二人を止める者がいた。一人の伝令兵だった。
伝令兵は、血相を変えて、争いを続ける勝子達に報告する。
「勝子様! 正面から、混成の大群が進撃中! その数、二万を超えます!」
「げ……!」
「な……!」
伝令の報告を受け、二人はわだかまりを一瞬忘れて、同時に前に振り向いた。
地鳴りが、鼓膜を貫いた。明らかに人間のものとは違う、醜悪な怒声が大気を通じて轟いてきた。彼女らは見た。視界を埋め尽くすほどの、カラフルな色取りの魔物たちを。かつて無いすさまじい数の魔物達が、川を渡り押し寄せてきていた。
「な、なんだ、あれ!」
「りゅ、竜だ! 竜がいるぞおおお!」
足音と共に、兵達の悲鳴が勝子達の耳に聞こえてくる。魔軍の上空で、一匹の竜のようなシルエットが、恐ろしい咆哮を放っていた。
虎子は奥歯をかみ締めつつ、どうすべきかを考えていた。食い止めるか。いや、それは無茶だ。数も質も違いすぎる。いったん下がるべきだが、どこまで下がれば……。
判断に迷い、虎子はなんとなく隣の勝子を見やる。自分と同じように、上空の龍を見つめて悔しそうに歯軋りをしていた。
「ん」
虎子は無理やり作り笑いを浮かべた。そして、できるだけ気楽そうな口調で言った。
「ふん。あんなの、大したことないもん。勝子は怖いの?」
「な……だ、誰が、怖がってるですって!?」
あっさりと挑発に乗った勝子が、虎子に食って掛かる。
図星だったのか、その声は震えていた。
「怖いんだー。やーいやーい、勝子の臆病者ー」
自分のことを棚にあげて、虎子は挑発を続けた。
「怖いって言う方が怖がってるのよ!」
「なんですってー!」
「このー!」
「あなた達」
呆れたような声がした。同時に、びし、ばし、と、虎子と勝子の後頭部が強くはたかれた。二人は思わず上を見上げた。汗の伝うおでこが、そこにあった。
彼女らの上司にして、この軍の参謀である、直江愛だった。愛は早うまを駆って、本陣指令部からこの前線に赴いてきたのだ。
愛が二人を一喝した。
「馬鹿な事を言ってないで、すぐに部隊をまとめなさい!」
「は、はいっ! 退却ですか!?」
思わず敬礼をして、それから勝子は問いかけた。愛は首を振った。
「いいえ。迎え撃ちます」
「え」
「全軍に命令! 退がる者は斬ります! ここで、敵軍を殲滅する!」
「ええっ!」
「ええええーーっ!?」
虎子達が驚きの叫びを上げた。数が違う。質も違う。陣地を構築しているわけでもない。その上、上空にはあの龍がいる。この状況で、敵を殲滅しようというのか。
そんな疑問が二人の顔に浮かんでいるのを見て、愛は薄く微笑んだ。
「馬場殿が、こちらに向かっているわ。挟撃よ。兵士達にも、そう伝えなさい」
「ぐおおおお! 突っ切れえええい!」
「おおおおおおっ!」
馬場彰炎の率いる騎馬隊が、南方から魔軍の前線を駆け抜けていった。てばさき兵達の槍の穂先が、群がる魔物兵を次々と蹂躙した。
騎馬隊は強行軍に次ぐ強行軍により、その数を数百にまで減らしていたが、それでも、突破力は健在だった。渡河直後の魔物達の脇腹をえぐり、混乱に陥れていく。彼らの作り出した混乱は、魔軍の統制を崩し、最前線の戦姫たちを大きく援護した。
ただ、騎馬兵といえど、空を飛ぶ魔物に対してはいかんともし難かった。直江愛が魔物に備え、多数の弓隊を用意していたものの、青龍に対しては打ち落とすどころか、矢を届かせることも難しかった。
『ウオオオオオン!』
咆哮の直後、青龍は武田軍にブレスを浴びせかけた。
「くうっ!」
赤と青の炎が、最前線の戦姫隊を直撃した。戦姫自身は逃れたものの、哀れにもブレスの中心にいた数人の足軽は、即座に消し炭と化した。
周囲の兵達は、恐慌に包まれていた。魔軍本体の突撃を、最激戦区で受けつつも、しかし戦姫の隊はこれまでよく保ち続けてきた。だが、士気も限界に来ている。
部下の一人が、どうすればいいかと戦姫に泣き付いてくる。
「臆するな。魔物といえど、味方に向かって炎は吐けん!」
戦姫は決断した。幸い、騎馬隊の突撃により敵陣は混乱に陥っている。戦姫は槍を振り上げ、長い髪をたなびかせて、数百人の部下たちに号令をかけた。
「全員、百歩進め! よもや生きて帰ろうなどと思うな! われらの道は、死地にこそあり!」
戦姫は叫んで、自らが先頭に立って突撃をかけた。飛んでくる矢を槍で次々と打ち払い、魔法の電撃を避け、先頭の魔物をその刃で打ち据えた。
「ははははは! 次はどいつだっ!」
端正な容姿とは正反対に、恐ろしさと勇ましさに溢れた姿だった。兵たちはその姿を見て、勇気が湧き上がってくるのを感じていた。前線は、いまだ保ち続けていた。
その様を、南西から眺めるものがいた。
狸に率いられた五千の軍隊が、丘の上に陣取っていた。
丘は魔軍本体の南西。つまり、前線から遠く離れた場所にあった。
「親父殿ー! まだでちゅかー!?」
「むむむ」
そこで、家康が唸っている。武田軍と魔軍の激突を見てなお、家康は迷い続けていた。
高みの見物を、いつまでも続けているわけにはいかない。名目上織田信長と同盟を組んでいる家康が、参戦しないわけにはいかないのだ。
「うーむ」
本来であれば魔軍に加勢するつもりだったのだが、家康の心の片隅で、それを邪魔するものがあった。政宗の言葉と自信が、心に強く刻み込まれていた。
魔人と妖怪王。勝った方に加勢すべきと考え、服部半蔵に偵察させてはいる。
彼らの勝負はいまだ、決着がついていないらしい。それ自体驚くべきことだが、それはともかくとして、目の前の戦場は待ってはくれない。黙って見ていては、両方から敵視されてしまう。
「親父殿ー」
部下達が、困ったような声で家康に泣きついてきている。かなり、焦れているようだ。
武田軍からも、時折挑発のように鉄砲の玉が飛んでくる。
魔軍からは、伝令が何度も家康の元を訪れては、脅しを交えつつ出撃を促してきていた。
「むう」
やはり魔軍か、と家康は考える。
いくら妖怪王とはいえ、あの魔人が相手では流石に分が悪い。
「いやしかし」
決断の決定打には欠ける。武田軍は、一度魔人を撃退したと聞く。どのような方法を取ったのかは不明だが、二度目がないとは限らない。
家康は結論のない堂々巡りを繰り返していた。
そんな時だった。
「……ん?」
家康の視界に、何かが入り込んできた。上空だ。東の方角の空から、奇妙な物体が猛スピードで南西に――つまり家康の陣に――向かってきていた。
「んげ! あ、あれは!」
空から飛んでくるそのシルエットを目にして、家康は目を剥いた。四体の人間型の影が、戦場の上空に姿を現していた。
距離はあったが、家康はすぐに影の正体を看破した。あれは護天だ。妖怪王の妻にして、すべての妖怪の守護者たる四人の女。すべての妖怪から尊敬を集める彼女らの実力は、大妖怪たる自分に勝るとも劣らない。
なぜ彼女らがここに、と考え、家康はすぐに心当たりに辿り着く。政宗が呼び寄せたのだ。それ以外にない。だとすれば――ここでじっとしていると、戦がどうとかいう以前に、自分の命が危ない。
家康は立ち上がった。そして叫んだ。
「え、ええい! 全軍! 突撃だーーっ!」
「どっちにでちゅか?」
子狸の問いかけに答える代わりに、家康は軍配を西に向けた。とたんに子狸達から歓声が上がる。子狸達は、魔物が嫌いだった。魔物達の妖怪軽視は、子狸達にもびんびんと伝わってきていたのだ。
「やほーい! いくでちゅよー!」
「魔酒ー!」
歓声を上げつつ、徳川狸軍団は丘の斜面を下り、怒涛の進撃を開始した。魔軍の後方を支える魔法部隊は、その突撃をまともに受けて、混乱状態に陥った。
家康を決断させた、当の妖怪娘達は、かなり必死だった。
そもそもなぜ彼女らここにいるのかといえば、3Gを通じて受け取った、政宗の伝言に応えたからだ。家康を、監視しろという。そういうわけで、お町の飛行能力により、はるばる三河に来てみたものの、家康は既に出撃済みだった。
その後を追って、はるばるまむし油田まで来た。そこまでは良かったのだが……
「ちょ、お町姐さん! 速すぎ!」
「……(ぶるぶる)」
「落ちる、落ちますー!」
「我慢しろ。梵天丸が、そこにいるのだ」
と、お町が言った。風を切り裂きつつ、お町はますますその速度を上げていく。てばさきなど問題にならないほど、とんでもない速度である。
だが……その背中に掴まる三人にとっては、たまったものではなかった。今のお町は、言ってみれば、ブレーキのないうし車と同じぐらいに危険だ。そのうえ空を飛んでいる。
「きゃー、きゃー!」
「騒ぐな。大丈夫だ」
何がですかー。
と突っ込もうとする野菊だったが、そんな余裕はなかった。お町は全身からごう、と緑色のオーラを噴出して、さらに加速した。そしてお町は南西の方角へと飛び去っていった。
――三人娘を、振り払って。
速度に耐え切れず振り払われた三人は、その場に落下した。落下点は、しかし地面ではなかった。三人の真下には、一反木綿のように長く翼を広げた、ドラゴンのような巨体があった。
青龍だった。
野菊と折女は反動を弱めるべく、反射的にその武器を下に向けた。
青龍の最大の特徴は、その飛行能力と硬い鱗による、防御力だ。空を飛びつつ炎の息を吐き続ける青龍に届く攻撃は長弓ぐらいだが、その硬い鱗を貫くほどの弓の使い手は、武田軍といえど一人しかいない。
つまり、本来であれば手出しのできない魔物だった。だが青龍といえど、その更に上空からの攻撃には無防備だった。
「えい!」
「あらよっ」
「……邪魔」
落ちてきた野菊と折女、それにノワールのそれぞれの武器が、青龍の両の翼を深く切り裂いた。
『オオオオ!?』
ぐん、と巨体が揺れた。巨体は慣性を失ってバランスを崩し、重力の法則に従って、妖怪娘達とともに落下した。
「彰炎さま、あれを!」
「わかっておる! おおおおおぉぉっ!」
自分達を苦しめてきた青龍の落下。部下の報告に答えたときには、彰炎は既に手綱を引いていた。手を焼いていた化物を倒す千載一遇のチャンスを、JAPAN有数の戦士たる彰炎が見逃すわけもなかった。
草原を一目散に駆け、群がる魔物兵をすれ違いざまに斬り、彰炎は落下点に辿り着いた。天を見上げる。暗い。太陽の光が遮られていた。理由は明らかだった。
「ぬおおおっ!」
今正に、龍の体が、彰炎の頭上に落下しようとしていた。
彰炎は両足を強く引き締めて胴体を固定し、巨大な槍を天に向け、両手で支えた。青龍の腹の鱗に、刃を叩きつけた。槍が大きくしなった。
とてつもなく重い手ごたえが、彰炎の両腕にのしかかる。もともと筋肉で膨れ上がっていた両腕が、ぼこんとさらに盛上がった。
『アアアオオオ!』
咆哮が頭上から轟いた。彰炎の槍は、青龍の腹を深くえぐっていた。傷口から青い血が彰炎の全身に降り注いでいた。龍の腹から噴出した血だった。
「ぐおおおおおおっ!」
彰炎は渾身の力を振り絞って、まさかりを振るかのように槍を前方に叩きつけた。青龍の巨体が槍に乗って、地面に叩きつけられた。ズドオオン、と凄まじい揺れを残して、巨体が大地に落ちた。
翼をもがれ、腹を貫かれ、青龍は瀕死の状態にあった。全身がびくびくと震えていた。彰炎は荒い息を整えて、そのものに近づいた。
「さらばだ。化物よ」
槍を振りかぶり、首の部分を掻っ切る。鱗の抵抗はあったものの、動くこともできぬ青龍が、それを防ぐ事は出来なかった。
『ザビ――エル――サ――』
最後に主の名を叫び、青龍は息絶えた。
彰炎はその死体をちらと見やってから、背を向けて、最後の獲物の場所を探し始めた。
魔軍本体を率いていた煉獄は、青龍の断末魔の声を近くで聞いていた。そして、もはや勝利の目が無いことを悟った。
「式部……ちっ……」
徳川家康が裏切った。もう一人の指揮官は息絶えた。戦局を覆すことはもはや不可能だ。煉獄は、戦前の己の認識が甘かった事を知った。
「ふん……」
だがそれでも、人間にただ負けてやるつもりは毛頭無かった。煉獄はそばの魔物将軍に指揮を預けると、ぽりぽりと頬をかいて笑った。
「土産が、いるな」
今この時にあって煉獄がすべきことは、ただひとつ。主たるザビエルの元に戻り、敗北を伝えることだ。そのための土産がいる。
煉獄は東の方角に目を向けた。展開する武田軍の向こう側に、敵本陣があった。
煉獄は口を吊り上げて笑い、地を蹴った。
「ま、またあー!?」
前線司令部で一息ついていた虎子は、自分の頭上を獣が飛び去っていくのを見た。部下たちが、恐慌に包まれていた。あの空飛ぶ化物がようやく落ちたというのに。
しかし、獣は自分たちを襲う気配がなかった。何かを一直線に目指しているようだ。
その進路の先にあるものに気付いたのは、愛だけだった。
「――ッ! 柚美、みんな! あれを撃って!」
「……了解」
愛の即断によって、愛のそばにいた柚美の弾丸と、弓小隊の矢が、巨大な獣に向かって放たれた。数十本もの矢と、ひとつの弾丸が、白虎となった煉獄を貫いた。
『……グ……!』
白虎の毛皮は、青龍ほどには厚くない。何本かが肌を貫通し、肉を傷つけた。なかでも柚美の箒星による一撃は、白虎の肩を貫通し、深い傷を与えた。
しかしその傷も、倒れるまで至るほどのものではなかった。白虎は地面に着地し、もう一度跳んだ。愛はしめた、と思った。跳躍の頂点に達したところを狙い打つべく、第二射を命令しようとする。
「……!?」
その直前に、巨体が忽然と掻き消えた。
「……つっ……」
煉獄は今、武田本陣の前に降り立っていた。白虎の消失と、煉獄の出現に驚く衛兵たちに向け、煉獄は腕を横にぶん、と振るった。衛兵達は瞬時に吹っ飛んだ。
白虎が消えた理由は、簡単だった。単に変身を解いたのだ。だが、変身中に受けた傷の影響で、煉獄の体はすでにぼろぼろになっている。
それでも煉獄は目標の地のすぐそばに、たどり着いていた。
煉獄は地面を蹴って、陣幕の中に飛び込んだ。
「て、敵だー!」
「香様を守れぇ!」
本陣詰めの武士達が、煉獄の出現に驚きの声をあげつつも、役目を果すべく煉獄に襲い掛かった。
「邪魔だよ」
煉獄は左手に持つ数珠から衝撃波を飛ばし、武士達を薙ぎ払った。そして、本陣の中央に目を向けた。そこに目標がいた。軍配を手にし、兄から受け継いだ鎧を身にまとう、武田香だ。
「……!」
香を守る者は、もう他にいなかった。
直江愛や戦姫達は、前線で指揮を取っている。白虎となった煉獄に、追いつけるはずがない。かといって護衛の武士がいくら押し寄せようと、煉獄にとっては全く問題にならないだろう。
煉獄は巨大な筒を香に向けて、にやりと笑った。
「ザビエル様への手土産だ。あんたの命、貰っていくぜ」
香は息を呑んだ。死の恐怖が目前に迫り、心が芯から冷えていくのを感じた。命の危機は二度目だった。
一度目は、震えそうになりながらランスの名前を呼んだ。だが今度はそれもできない。ランスは今まさに、魔人と戦っている最中だ。もしも呼び戻すことが可能だったとしても、それはしてはいけないことだ。
香は震えを懸命にこらえた。裂傷だらけでなお平然としている煉獄の恐ろしい姿を、きっと正面から睨みつけた。巨大な筒から発せられる、気絶しそうなほどの殺意に負けぬよう、煉獄の瞳を見据えて、憎しみを叩きつけた。
「……あなたは……!」
言葉が、続かない。足は震えていた。恐怖は隠しきれなかった。
煉獄は香の様子を見て、あざけるように鼻で笑った。
「はっ。怖いか。怖いだろうな、あんたはただの人間だ。あんたの兄貴もそうだった。……なんでこんなのに人間が従うのか、理解できんよ」
香は答えない。自分だって、真に理解などできていないのだ。それでも演じ続ければならないのは、なぜか。何度考えても、答えは出てこなかった。
それでも香は、自分と、自分の兄が間違っていないと信じた。
煉獄の目をじっと見据えて、想いを言葉にして叩きつけた。
「……許さない……っ!」
煉獄は無情に答えた。
「あばよ。死にな」
煉獄はトリガーにかけた太い指を引いた。香は目をつぶりたくなる衝動に懸命に耐え、兄を殺した男に、視線だけで対抗し続けた。
どう足掻こうと、自分の抵抗など無意味だ。
ならばせめて、心意気だけでも、負けるわけにはいかなった。
瞬間。
香の背後から、煉獄の声より更に暗く、それでいてよく通る声が聞こえてきた。
「あんたが」
声と共に、一筋の黒い閃光が、香の頬の横をかすめて煉獄に飛んだ。
「っ!?」
煉獄はとっさに右腕を払い、銃で何とかそれを弾いた。それが何だったのか――確かめる暇は、煉獄には与えられなかった。
突風が、その場を駆け抜けた。一瞬の出来事だった。閃光ではなく実体のあるものが、香の右横を走り抜けていった。香は風圧だけでそれを感じた。あまりに速く、目に見えなかった。
ただその懐かしい声が、誰のものであるかを、香は知っていた。
煉獄がはじめてその表情を歪めた。突っ込んでくる影の攻撃を避けるべく、腕を上げようとする。だが遅かった。直前に手裏剣を跳ね除けたせいで煉獄の初動は遅れていた。そのうえ、受けた裂傷で動きが鈍っていた。
腕が上がる前に、影が煉獄を通り過ぎた。
ぴぃん、と、金属を弾く音がした。
「――死ね」
直後。
煉獄の首がずり落ちた。遅れて、体と首の境目から血が噴出した。
「……あ……」
香は見た。煉獄の背後で、ゆったりとした着物の男が、右腕に鋭く長い刃物を携えて、背中を丸めていた。義風だった。
義風は、かつて香が一度だけ見たときと同じように、背中に凄まじい殺意と威厳を漂わせて、憎むべき敵の死体の向こう側で、静かに立ち尽くしていた。
「香様」
義風が振り返った。
「は、はいっ!」
香は答えた。さきほどの殺陣に、気が張り詰めているらしく、声が震えてしまっていた。振り返った義風の目は、しかし、いつものように柔らかい光に溢れていた。殺意はもうどこにも見当たらなかった。
義風は香に近寄ると、その小さな肩をぽんと叩いた。そして、先ほど見せた鬼の雰囲気はどこへやら、いつものようにひょうひょうとした口調で楽しそうに言った。
「われわれはね。夢を見たのです。信玄様に――そして今は、香様に。香様がわれわれの夢であり続ける限り、われわれもまた、夢を守り続けましょう」
義風はそこで言葉を切ると、香から視線を外した。
西の空に目を向け、しわの刻み込まれたあごに手を当てて、義風は言葉を続けた。
「戦国の世であればこそ、人の脆さと儚さに意味が生まれるのです。それは、魔物などには決して理解できぬことでしょう。とても心地よいことだと思いませんか?」
義風は顎に手を当て、一人でうんうんと頷いた。心底、嬉しがっているようであった。
その裏にどんな感慨が含まれているのか。香が知る由も無かった。きっと香が生まれるずっと前に、義風はその心を決めていたのだ。
香はただ、これほどの人物が兄に、いや武田に忠誠を尽くしてくれていることに、改めて感謝した。
「さ〜て。では、仕上げといきましょうか。勝利はもう、すぐそこですよ〜」
義風はそう言うと、香に目配せをして、北の丘を指差した。香が義風の指の先をたどると、その先、丘の上では北条の家紋の旗がゆらゆらとはためいていた。
丘の上から千単位の式神達が放たれた。式神が、いっせいに魔物たちに襲い掛かった。
戦の勝敗は、既に決していた。
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