「信玄が戦場に?」
 小高い丘の上に張られた陣幕に、一通の伝令が飛び込んできた。
 曰く、武田信玄が遂に動いたと。
「そう見えたの?」
 問うたのは、天幕の中央に立つ若年の女性である。片手に軍帳簿を抱え、きりりとした目つきから鋭い視線で伝令を捉えている。年若いにも関わらず、その態度からは既にある種の風格すら伺えた。
 彼女の名は直江愛。JAPANに轟く上杉の家名を、知略で支える参謀本部を統括するものである。と同時に、JAPANでも屈指の知恵者として知られる重臣であった。
 親しい友人であれば、その彼女が僅かに眉を潜めていることに気付いただろう。
 愛は伝令の報告に少なからぬ驚きを覚えていた。
「遠目ですが、あれは間違いなく武田信玄でした」
 伝令が強い口調で言った。
 信玄の容姿は他国に広く知られている。背は高くなく、髪は異国人のように明るい。そのJAPAN人としては特徴的な容姿を、見間違えることは少ないだろう。
「まさかね。戦いぶりは?」
「はい。一言で言えば、無謀そのものです」

 戦術も何もなかった。陣形も、最初は初歩的な方円の陣を組んでいたものの、いざ敵と接触するとすぐに崩れてしまった。
 混戦の中、兵種の特性をほとんど生かすことができず、ただおのおのの部隊が突撃する。
 これ幸いと見た村上軍が、武田軍の本体を包囲したちょうどその瞬間。
 それまで多くの足軽に護られていた武田信玄が、自ら先頭に立ち手に持つ紫の大刀を振り上げて突進。
 その猛烈な勢いでもって、肉薄していた村上軍を分断。勢いを維持したまま、後方の陣にいた村上の司令官を討ち取ったという。

「これは」
 愛は詳細を聞くと、更に眉をゆがめた。
 その戦ぶりは非常に荒く、戦術も何もなかった。ただ勝ったという結果だけが残っている。
 確かに司令官を倒せば戦は勝ちである。だからといって、最も防備の整った本陣に、指揮官が自ら一直線に突き進むなど、正気の沙汰ではない。
 よほど自らの腕に自信があらねば、そして、部下が突撃する指揮官を信頼していなければ、できない芸当だ。
「わかりました。下がりなさい」
 愛はとりあえず伝令を下がらせ、主君と二人きりとなれるよう、天幕の扉に相当する覆いを自ら被せた。
「愛」
 同時に、それまで椅子に腰掛けていた鎧姿の女性が立ち上がる。
 そして抑揚なく言った。
「信玄が、来ていたのか」
 女性の名は、かの上杉謙信。JAPANにその名を轟かせる軍神にして、若干18歳にして上杉家を束ねる国主である。
 その軍神はいまや宿敵の名を聞き、戦意に身を震わせていた。彼女の黒い瞳は、抑えきれぬ戦への意欲を具現化したかのように、燃え盛る炎のごとき輝きを放っていた。
「聞いた限りでは、その可能性はあります」
「?」
 謙信は表情を変えずにいた。が、僅かに首を傾げる様を見せる。愛の持って回った言い回しに疑問を覚えているようだ。
「……うそを言ったようには見えなかった」
「私もです。ですが、始めて北方に姿を見せた『あの』武田信玄にしてはあまりに無謀な戦いぶり」
 北条軍との戦いにおける信玄の評判だけは、密偵を通して伝わってくる。
 曰く、疾きこと風のごとし。
 曰く、静かなること林のごとし。
 曰く、侵掠すること火のごとし。
 曰く、動かざること山のごとし 。
 稀代の軍略家としてのこれらの評判と比べ、先の伝令で伝わってきた信玄の戦術はあまりにお粗末過ぎる。
「例えそれをよしとしても、兵の数が少なすぎます。信玄の本格的な出陣となれば、報告のざっと五倍は用意できたはず。騎馬兵が見えないというのも解せません」
 信玄の出陣となれば、武田家にとっては絶対に負けられない戦いとなる。であれば当然、四将軍と同等以上の軍隊が付き従うはず。現に、今まではそうだった。
「つまり」
 愛は謙信と向かい合い、強い口調で断言した。
「総合して、あまりに無用心過ぎます。明らかに影武者。そして、罠かと」
「罠?」
 愛はうなずいた。
「例えば、きのう、貴方が戦場に信玄を見たらどうしました?」
「突撃する」
 一片の躊躇も無く謙信が言った。
 すがすがしくなるほど、迷いのない宣言である。
 愛はなかば呆れすら覚えつつ、謙信に同意した。
「そうです。相手もそう予測することでしょう。行動が予測できるということは、罠も張りやすいということです。信玄がもしこの仮説を元に……どうかしました?」
 途中まで言って、愛は謙信が何かを言いたそうにしていたことに気付いた。眉をわずかに中央に寄せている。
 愛の戦術に関するな発言に、謙信が口を挟むのは珍しいことだ。黙って発言を待つ。
「しかし愛。私なら」
 謙信は愛をじっと見据え、内心で暖めていた意見を口に出した。
「きっと罠など用意せず、信玄と同じ事を」
「しないでください」
 先手を打って、愛がぴしゃりと言った。
「む」
 そう。まったく、その通りである。
 愛は思考する。信玄の先刻の戦ぶりは、謙信のそれに明らかに似ていた。
 当主自ら単身突撃し、戦場の支配者となる。勝利への道、即ち敵本陣への道を最短で突き進み、将の首を刎ねる。それを以って部下の士気を上げ、掃討戦に入る。
 謙信の人間離れした剣技があればこそ可能な、戦術とも言えぬ強引な決着だ。
 件のやたらと腕の立つ影武者は――そして恐らくその背後にいる信玄、もしくは真田透琳は――謙信を誘い出すただその為だけにあのような戦いを演出したのかもしれない。
 だが、謙信は逆方面の諏訪家の援軍に向かった。ために目論見は外れ、策は無為となった。
「いえ」
 と、愛は考え直す。
 今から考えれば、諏訪家への侵攻は戦略的意図の薄いものだった。こちらこそ上杉の援軍、つまり謙信を誘き寄せる罠だろう。
 だとすれば、これは二重の罠だ。
 謙信が諏訪家の援護に行けばそれはそれでよし。そのまま村上に侵攻し、重要拠点を確実に奪取し、影武者の武勇を以ってして、信玄の名声を更に高める。
 そしてもし仮に、愛がこれを読み、謙信が信玄の本体に向かって突撃した場合。何らかの罠をもって謙信を討ち取り、天下の趨勢を決定付ける。
 罠の内容については、現時点では情報が少なすぎるため、具体的には想像もつかない。とはいえ、軍神と称えられる謙信とて、無防備の状態で八方から矢を射掛けられれば死ぬのだ。やりようはあるだろう。
「いずれにしても」
 愛がそこまでの考えを謙信に進言し、結論を言った。
「今回は既に遅すぎたようです。ですが、次にまた信玄らしき者が現れた場合」
「うん」
 謙信は素直にこくりと頷いて、
「突撃する。……気をつけて」
 などとのたまった。

 どてー、と情けない音がした。
 愛が思わず頭を天幕にぶつけた音だった。
「……あ、あのねえ」
 その続きは言葉にならない。やり場の無い感情が愛の内からとめどめなく湧き出でた。
 謙信の毘沙門天に教えに基く行動は、最初から最後まであまりに直情的だ。それが変化を起こすことは、絶対に無い。むしろ『気をつけて』の但し書きが付いただけでも、大きな進歩と考えるべき。
 きっと考えるべきなのだ。付け加え方が、あからさまに『今思い出した』みたいな感じであったとしても。いや決して自分をだましている訳ではなくて。
 などと葛藤を繰り返す愛を前にして、何か思うところがあったらしい。
 謙信が唐突に頭を下げた。
「すまない」
 長い黒髪がふわりと宙に舞い、暗い天幕に幻想的な雰囲気を投げかけた。
「愛には、また迷惑をかけるようだ」
 本当にすまなさそうにそんなことを言う。
 その表情は、まるで親に許しを請う子供のように、幼い感情がむき出しにされていた。およそ軍神の名とは程遠く女々しかった。
 上杉の家臣団には決してこんな表情は見せない。
 ただ愛にだけ、謙信はその表情をちらと見せるのだ。
「んもう」
 愛は謙信と同じく素の自分に戻って、緊張を和らげた。
 そんなことを言われたら、もうどうしようもない。
 愛は自分がなぜここにいるのかを思い出してしまった。ただ謙信を護る。それだけの為だった。
 だから、もとより選択肢などないのだ。
「いいわ。その前提で作戦を考えます」
「ごめん。ありがとう」
「はいはい。じゃ、今日はさっさと寝なさい。明日は忙しくなるわよ」
 軽い答えの中には、深い親愛の情が含まれていた。
 謙信を強引に陣幕の奥へと引っ込めてから、愛は一度は消した明かりに、再び火を付けた。
 正道を突き進む謙信を全力で援護し、守るための策略を捻り出すために。




 奪取したその砦に駐留する武田家の兵は、ゆうに一万を超えていた。
 ランス率いる武田家の軍勢が村上軍を破った、その夜。
 合流した透琳の軍と共に、ランスの中隊は、次の戦の準備を進めていた。
 その砦の最上部、見晴らしの最も良い畳敷きの部屋に、二人は陣取っていた。
「おい。透琳」
「ふむ」
 透琳は手元の報告書から目を移さずに、ランスに答えた。
 蝋燭のともし火が照らす中、小姓一人を傍らに携えて、透琳は静かに机に向かっている。その横でランスが腕を組み、襖に寄りかかっていた。
「なにかものすごい誤解がとびかってる」
「どのような」
「俺様を信玄と思う奴が多い」
 書いた指令書を小姓に預けてから、透琳はようやくランスの方に振り向いた。
「当然であろう。貴殿の外見を見れば、むべなるかな」
「確かに似てるが、言いふらしたのはお前だー!」
 そう。誰が最初に言い出したかといえば、透琳なのだ。
 砦の中央広場にて行われた勝利後の軍議で、質問があった。ランスという男、信玄公にあまりに似すぎているが、どういうことか、と。
 それに対し、透琳は答えた。
『かの者は、我等が武田家にとって最重要の者と心得られよ』と。
 これでは「ランスこそ信玄である」と宣言したも同然である。
 間違えられること自体は、ランスにとっては別にどうでもいいことだった(むしろ積極的に自分から詐称していた程だ)。しかし、とにかく秘密で何かが進められていることが気に入らない。
 ちなみに件の軍議にランスは面倒くさがって出席していなかったりするのだが、ランスはそのあたりのことは綺麗さっぱり忘れていた。
 自己中心的なことこのうえない。
「どーゆーことだ、俺様は何も聞いてないぞ」
 透琳は白紙の巻物を机に広げつつランスの問いに答えた。
「貴殿には、お館様の影武者となっていただくこととしました」
 墨を擦りながら、透琳が抑揚無く言った。
 その冷たい視線は再び机の巻物に移っている。
 しゃ、しゃ、という、墨を擦る物音だけが部屋に反響する。
「かげむしゃ?」
「そうです」
 言葉少なな透琳の言葉に、ランスはややいらつきを覚えた。
 追加の説明があるのかと思い、いちおう数秒間待ってみる。
 が、それだけだった。
 即座にしびれを切らしたランスが怒声を上げる。
「わからん! もっとわかりやすく説明せんか」
 透琳は一瞬目を瞑り、思考をめぐらせた。
 話すべき内容を吟味しているかのようだ。
 が、すぐにランスの方に振り返った。今度は全身でだ。
「さきほどで全てです。貴殿には、影武者として武功を立て、武田の一翼を担って頂く。それが必要であり、また可能であると我等は考えている」
 一言一言に重みをつけて話す。その声は、並みの胆力の男であれば反論も質問も許されないほど確信に満ちていた。
「……。ほう」
 透琳の言葉に、ランスは顎に手を当てて何事か考え込む仕草を見せる。視線を宙にさまよわせている。言葉の意味を、頭の中で整理しているのだ。
 十数秒の後、にやり、とランスの大きな口が釣り上がった。一言で言えば、下品な笑い方だ。
「ほほおう」
 ランスが何かを考えた場合。結論は常にランスにとって都合のよいものにしかならない。というより、まず最初に結論を出してから、それを導く理屈というか屁理屈を考える男であった。
「うむ。よくわかった。天下統一のためには、どうしても世界一かっこよくて最強の俺様の助けが必要というわけだな」
 つまり、こういうことだ。
 『影武者』という言葉の意味を特に理解しないまま、都合よく解釈し――確かに真実の一部ではあったが――ランスは機嫌を取り戻した。
 透琳は自意識過剰の見本のようなランスの発言を、肯定も否定もせず、ただ鷹のように鋭い視線をランスへと向けた。太い眉が更に鋭く釣り上がる。
「がはははは。まあ、信玄のまねをするのはかまわん。だが面倒なことにはならんだろーな」
「ランス殿は、これまで通りに過ごしていれば良い。面倒ごとは全て、こちらの手の者で対処する故」
「ならいい」
 信玄の名声を利用できる、公式のお墨付きをもらった。それだけでランスは既に満足していた。本意を完全に隠した透琳の態度は気がかりといえば気がかりだったが、それ以上に自分の欲望に忠実な男であった。
「馬場殿と合流し、明日よりMAZOに攻め入ります。頼みますぞ」
「わかったわかった」
 ランスは適当に手を振りつつ、背後の襖を開けた。透琳に興味をなくしたらしく、そのまま部屋を後にする。
「ふんふん〜。おーーれはーらんすーーさま。てーーんかむてきーだー」
 階段をだんだんと乱暴に下りる振動と、わけのわからない歌詞の歌を背後に感じながら、透琳はランスの言動を反芻していた。
 そして、小姓にも聞こえぬほど小さな声で呟いた。
「お館様もあれほど単純であれば」
 その続きは言葉にならない。
 口に出そうとしたその言葉は、臣下として決して許されぬ禁句だった。
 透琳は思考の戯れを止め、再び筆を手に取った。そして、JAPANの未来を勝ち取るための策を書き記し始めた。


 
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