星空の元、上杉軍が陣を張っていた。
 陣の中央にあるテントで地図を広げ、渋い顔をしているものが一人。名前を直江愛。上杉家が天下に誇る才女である。
 その才女が、いまや最大の危機に直面していた。

 広げた地図上のMAZOの地には、赤い駒がどん、と乗っかっていた。赤色は武田軍を示している。MAZOの南東部には、いまや武田軍の精鋭・馬場彰炎の騎馬部隊が駐留しているのだ。
 先の戦で上杉軍が破れ、侵攻を許した結果であった。
 上杉家の本拠地は佐渡。その佐渡への進入拠点を築き上げられた形となる。
 兵達の間には、明らかに動揺が走っていた。
 軍神と称えられる上杉謙信が自ら出撃した戦において、これほどはっきりとした敗北を喫したことなど、これまで一度もなかったのだ。

 そして、その当事者はというと。
 愛は奥の椅子に座る謙信をちらりと見やった。
 態度は一見、普段と変わりないように見えた。微動だにせず遠くどこかを眺めている。
 が、愛は知っていた。この時間に謙信が微動だにしない。それは異常事態だ。
 時刻は七時をちょうど回ったところである。普段の謙信ならば、空腹に目を回し、飯の催促に貧乏ゆすりを重ねているはずだ。
 愛は異常事態の真相を、もう一度その目で確かめるべく、謙信に近寄った。そして耳元でぼそりと呟いた。
「信玄」
 単語だけで、謙信の体がびくんと跳ねた。
「……う……」
 そして、ぼろぼろと眼から涙をこぼす。
 愛はため息をついた。謙信が無表情だったのは、別に心が落ち着いているからではない。情緒が表情に表れぬほど乱れすぎているだけなのだ。
 だから、いきなり限界を超えて、涙を流す。まさしく子供だった。
 そんな謙信に上杉軍の厳しい現実を突きつけるには、愛は謙信を知り過ぎていた。
「よしよし、泣かないの。大丈夫だから」
 子供をあやすように、愛が優しい声をかける。
「はー。謙信も、とうとう恋を知る頃になったのね」
「……恋?」
「そうよ。気付かなかったの?」
「恋。恋か?」
 謙信は首をゆっくりと横に振ると、呟いた。
「わからぬ」
「いいえ」
 その言葉を愛は蹴り飛ばす。
「単に言葉を知らないだけです。いいですか」
 愛はこほんと咳払いをすると、謙信の正面に回り、向かい合って座った。
「今から健康診断をして差し上げます。あの男のことを、思い出してごらんなさい」
「あの男」
 あの男と聞いて、謙信は即座に信玄の顔を思い浮かべた。そのこと自体がほとんど末期的な症状だ。
 が、愛は謙信にも『恋』というものが分かるように話をするため、診断を続けた。
「いま、心臓はどんな感じですか」
「……高鳴っている」
「息は」
「苦しい」
「頭は」
「ぼうっとしている」
「胸は」
「締め付けられるように痛い」
「はい。それが、恋の典型的な症状です」
 言ってから愛は、また呆れてきたらしく、ふううう、とこれみよがしに深いため息をついた。

 よりにもよって武田信玄である。いや、その影武者だろうか?
 どっちにせよ最悪だ。最悪の極みだ。上杉家当主のお相手として、これ程不適当な男は他にいるまい。どこぞの大衆小説読んでるんじゃないわよ、などと突っ込みを入れたくなる。
 幼馴染の初めての恋。なんとか応援し、成就させたいという気持ちはあった。しかしそれにしても相手が悪すぎる。

「とにかく」
 愛は気持ちを切り替え、とりあえずこの非常事態を収拾すべく、現実的な案を出した。
「佐渡に戻りますよ。次もきっと信玄が出てくる。こんな状態では、戦えません」
「いや、しかし」
 MAZOへの武田の侵攻を許したのは、明らかに謙信の責任だ。これ以上退いては沙門天への信仰に、謙信を慕う兵達に、そして誰よりも、謙信を信じて必勝の作戦を立案した愛に、申し訳が立たなかった。

 謙信は深い自責の念に駆られていた。
 あの時、信玄に止めを刺していれば。
 たとえ影武者であったとしても、続く侵攻を阻止することはできた筈だ。なのに。
「……う」
 なのに、至近距離で見た信玄の顔を思い出すだけで、心臓が高鳴った。
 顔がほころんだ。胸が締め付けられるように痛んだ。
 いてもたってもいられない。思考があの口の大きい男に囚われている。

「ああ、また。ほら、ハンカチです」
 本人の気付かぬうちに、謙信はまた大粒の涙をこぼしていた。
「ありがとう」
 謙信は素直にハンカチを受け取り、ちーん、と鼻をかんだ。
 戦場で見せる神々しいまでの凛々しさとは裏腹に、その仕草は女々しさに溢れていた。
 そんな頼りない謙信の様子を見て、愛は確信する。
 戦いなんて、絶対にやらせられない。
 下手をすれば、また泣き出してしまう。今度は戦場で。信玄の目の前で。
 愛は謙信から汚れたハンカチを受け取ってポケットにしまうと、立ち上がった。
「無理ね。帰ります。ほら、立って」
「いや、しかし」
「あーもー。同じ事を繰り返さない! これは決定事項だから。さあ、早く乗った乗った」
「愛」
 愛が謙信をぐいぐいと押した。
 が、その瞬間。
 一人の軽装の女性兵が、はやうまに乗ったまま本陣に駆け込んできた。
「謙信様ーーーーー!」
 そして、愛の直前でうまを飛び降り、慌てた様子で口を開いた。
「な、県政さまが、いや、県政が反乱を!」
「……!」
「なんですって!?」
 謙信と愛が、それぞれに驚きの反応を返した。
「わ、私だけが逃がされ、この文を謙信様に、渡せと……」
「貸しなさい!」
 愛が奪い取るように巻物を伝令の手から剥ぎ取る。
 字体は達筆。しかし、内容は下劣そのものだった。
 巻物にはこう書かれていた。

『春日山は、県政のものとなった。兵と家族らの命が惜しければ、謙信が一人で春日山城に来い』

 後には意味のない罵倒の言があったため、愛は途中で読むのをやめた。
 びり、と紙が破れる音が響いた。
 県政の外道さと、己の不甲斐なさに憤慨のあまり、愛が巻物を破いた音だ。
 感情を表に出すことが許されぬ愛の、静かな怒りだった。
 それが仇となった。
「っ! 謙信様!?」
 愛が気付き、振り返る。
「……叔父上」
 謙信が、愛の肩越しに、県政の手紙を覗き込んでいた。
 愛は最大の失策を犯したことに気が付いた。
 今の謙信に、このような手紙を見せればどうなるか。
 簡単に予想がついた。この最初から最後まであまりに直情的で、純真で、高潔なこの子には、決して書状を見せてはならなかったのだ。
「――」
「ま、待ちなさい!」
 愛の制止の声を振り切り、謙信は早うまに飛び乗った。
 そして即座にうまの腹を蹴る。
 愛が止める暇もなかった。もとより、本気になった謙信の身体能力に愛が適うはずもないのだ。
 夜の草原に蹄の音を残して、謙信はひとり、地の向こうへと姿を消した。
 上杉謙信としての責任を果たすために。



「さて。どうすべきかな」
 十畳足らずの狭い部屋。蝋燭の暗い明かりに照らされる中、四人の男が座っていた。
 上座に信玄。その両脇を囲むようにして、昌景と透琳。
 貝の地を離れている義風と彰炎を除いた、事実上の武田トップ会談である。が、それにしては場違いな男が一人、信玄の前に座っていた。
「ふー。いったいなんだ」
 そこに、なぜかランスがいた。MAZOから急に呼び戻され睡眠不足なランスは、あくびをかみ締めながらあぐらをかいていた。
「会議ならてめーらだけでやれ。ふあああ」
 いくら破格の待遇を得て、また戦功を立てているにしても、この家老会議に呼ばれるには場違いな立場の男である。それぐらいは、本人も認識しているらしい。
「まあ、聞いてよ。きみにもきっと興味のある話だと思うよ」
 信玄はこほんと軽く咳払いをすると、大きく口を開けたままのランスに、軽い口調で言った。
「上杉家の使者が、今朝ここに来てね。和睦したいんだってさ」
「んが?」
 信玄の言葉に、ランスが間抜けな反応を返した。
 それほど意外極まりない言葉だった。
「謙信ちゃんがか? んな馬鹿な」
「左様。来たのは、かの軍神が治める上杉家ではござらん」
 透琳が信玄の後を引き継ぎ、説明を付け足す。
「? どういうことだ」
「使者の主君は、当代上杉謙信の叔父、上杉県政。謙信がランス殿を迎撃するべく出陣した隙を突き、佐渡を乗っ取った男です」

 敗戦により権力と支持を失った謙信に取って代わる。
 俗に言う、下克上である。
 信玄への忠誠を美徳とする貝の地では、決して有り得ぬ事態だ。
 この場に彰炎がいれば、敵とはいえそのあまりの下劣さに、床を踏み抜く勢いで憤慨していただろう。が、彰炎は現在、その上杉家とにらみ合いを続けており、ここにはいない。

 透琳は冷静に説明を続けていた。
「和睦に応じれば上杉家の続く限り武田に従属を誓う。更に従属の証として、上杉謙信をこちらに人質に出すとのこと」
「なに!?」
 どうでもよさそうに鼻をほじっていたランスが、目の色を変える。
「まじか? あの謙信ちゃんが人質?」
 喜び以上に驚きが強かった。
 つい先日、ランスと互角(とランスは言い張る)の決闘を繰り広げた剣豪である。その謙信が簡単に反乱軍の手に落ちるとは考えにくかった。
「忍の者からは、謙信が春日山城にたった一人で入城した、という見識が入っております」
 武田の忍は、JAPANでトップを争う実力を誇る、高坂義風直属の実戦部隊。情報は正確だろう。
 そして、国主がただ一人で帰還するなど通常はありえないことだ。恐らくは県政に脅迫され、縄に付いたと思われる。
 透琳はそう結論付けて、三人をぐるりと見回した。
「さて。いかがしますか」
「がはははは。悩むことはない、もらえるものはもらっておこう」
 ランスが間髪入れずに提案する。
 どこまでも欲望に忠実な男である。
「ふむ。それがまず一手。しかし主君、それも身内を裏切る臣下が信用できますかな?」
 透琳のもっともな意見に、ランスはふんと鼻を鳴らして反論した。
「知るか。裏切られたらそのときはそのときだ」
 謙信ちゃんさえもらえれば、あとはどうでもいい。
 そんな考えが透けて見えそうなほどの適当さ加減で、ランスは答えた。
 しかし、ランスの言に昌景が深く頷いた。
「一理ある。来るもの拒まず。正も負も全てを飲み込んで、お館様のもとJAPANを統一する。それが我等の目的であった筈」
「そうだそうだ。謙信ちゃんの処女は俺様のものだ」
 話の流れを無視してランスが言った。
 空気を読むということを知らない男であった。
「え、ランス。さすがに人質の軍神様を無理矢理、というのは認めにくいんだけど」
「ふむ」
「道理」
 透琳と昌景が、信玄に真面目に賛同した。
 それをやられては、武田の家名が地に落ちるだろう。旧敵国の国主、しかも軍神と称えられたJAPANの英雄を、信玄の影武者が辱めるという事態は非常にまずい。
 そもそも、公式の場でこんな話題が上がる事が、まずおかしい。
 が、この場には二種類の人間しかいなかった。
 非常識人と、非常識を許す度量を持つ偉人である。
 要するに、ランスの暴走を止める者はこの場にいなかった。
「なに? いや別にかまわんぞ。要は無理矢理でなければいいんだろう」
「まあ。本人が、心の底から同意してればね」
「がははははは。望むところだ。謙信ちゃんを俺様の魅力で屈服させてくれるわ」
「よいのですか、お館様」
 さすがに心配になったのか、昌景が問うた。
 が、信玄は楽しそうに笑いながら、首を縦に振った。
「面白そうじゃないか。別にいいよ」
「……ふむ。お館様が、そう仰るのであれば」
「うん。じゃあそれはそれとして、透琳はどう思う? この和睦を」
 信玄の要請を受けて、透琳は更に思考を深める。
 ランスの戯言は置いておくとしても、利害を考えれば断る理由はないように思えた。
 だがここに彰炎がいれば、真っ先に反対しただろう。
 上杉県政の行動は明らかに武士道に反する、そのような者と手を結んでは、武田家の名折れである、と。
 名を惜しむ懸念をただの感傷と切り捨てることはできない。武田の家は、その名の通り武の集団だ。武勇を尊び、武名を奉じて成り立つ家だ。
 県政と手を組めば、不満を覚えるものは家臣団の中に多くなるだろう。
 信玄の威厳を持ってすれば、不平が出ることはないだろうが。
「ふむ」
 透琳は思考の結論を出すその前に、昌景を真っ直ぐに見た。
 昌景は、腕を組んで微動だにせず透琳の言葉を待っていた。
「私は」
 その動じぬ姿勢を見て、透琳は決断する。
 この場にいない二人の盟友の意見を頭の中で伺い、二つの道と、そして、二つに当てはまらぬ道すらも天秤に掛けてから、透琳は結論を出した。
「賛成致します」
 その低い言葉には、確たる信念が宿っていた。
「JAPANを統一するそのためには、ここは和睦すべきです。寛大さと、寛大さを担保する厳格さ。その両方を合わせ持たねば、天下の統一などおぼつきませぬ。まずは許す。裏切れば、裁きましょう。この和睦は、武田家の信念を天下に知らしめる絶好の機会となるはずです」
「……うむ」
 昌景が深く頷いた。
 二人の将軍は同意を得ると、信玄に向かって跪き決断を迫った。
「んー」
 信玄はちらとランスを見やる。あぐらをかいて、期限よさそうに鼻歌を歌っていた。
 その気軽さに信玄は思わずにやついてしまう。
 が、すぐに真剣な表情に戻すと、声を張って言った。
「うん。和睦しよう」
 信玄はすくっと立ち上がると、言葉を続けた。
「昌景、透琳。あとは任せたよ。彰炎と義風には、僕から話をしておく」
「御意」
「かしこまりました」
「がはははは。よきにはからえ」
 三者三様の承諾の声が、狭い部屋に響いた。


 護送籠の中で、謙信は目を瞑っていた。
 その両腕は背後で縛られている。謙信の武勇と、武田の不興を買うことを恐れた県政が指示したのだ。
 それが逆に不興を買うのだということに、男性至上主義者の県政は全く気付いていなかった。

 また、そもそも謙信は縄などすぐに解くことができた。
 見た目とはかけ離れて人外の腕力を誇る謙信である。細い縄程度なら、力ずくで引きちぎることすら可能なのだ。
 が、そんな手段は、今の謙信の頭には欠片も思い浮かばなかった。

「……信玄」
 信玄と、会う。
 それを思うと謙信の胸がばくんと高鳴った。
 しかし同時に、押しつぶされそうな程の自責の念が、謙信の胸を反対側から強く揺さぶった。天下泰平の文字が、謙信の脳裏に強く浮んだ。

 毘沙門天の教え。愛の呆れたような顔。信玄の笑い声。部下の信頼の視線。
 謙信の心の中で、それらが複雑怪奇に絡み合っていた。
 信玄の声と毘沙門天の教えが謙信の両耳に交互に響いた。
 信頼の置ける部下が謙信を断罪した。愛が信玄の顔を蹴り飛ばした。

 ぐるぐると脳裏を回る脈絡のないイメージが、謙信から思考力を奪い取っていた。
 やがてどうにもならなくなって、謙信はひとり、か細い声でつぶやいた。
「わたしは、どうすればよい」
 その問いに答える人が、そばにいなかったことを思い出し、謙信は悲しげにうつむいた。


 
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