武田の家紋を胸に付けた武士が、大広間にずらりと並んでいた。戦国最強の名を欲しいままにする武田家臣団である。数は軽く五十を超えていた。
その最奥に、信玄が座っていた。戦用の凄まじく分厚い鎧を着込み、兜だけを脱いで傍のものに預けている。
信玄の両脇は、かれが最も信頼する者たち、武田四将軍が固めていた。
MAZOから帰還した彰炎が、向かって右。武田全軍の総指揮官である昌景が左。それぞれが短い槍を抜き身のままに持ち、微動だにせず身構えている。
そこから少し離れた壁際では、透琳が油断なく目を光らせていた。
四将軍のうちただ一人、この場に姿を見せぬのは高坂義風。彼は影から警備を支えていた。広間の周囲では、見えている五倍以上の数の護衛達が、包囲網を構成しているのだ。
正に一部の隙もない警護。
今からこの場に迎えられようとするものは、それでも足りぬ程に武田家に危険視されていた。
世に軍神と称えられる上杉謙信である。
賞賛、驚嘆、不審、値踏みなど、様々な感情の入り混じった五十人以上の視線が左右から注がれる。悪意も好意も入り混じった視線の雨。その中を彼女は堂々と歩いていた。
小姓に先導され、謙信は広間をゆっくりと進んでいく。
その手は後ろで縛られたままだが、気にした様子はない。とん、とん、と静かに畳を踏みしめながら、武士達の間を歩む。
信玄まで十数メートルの距離まで行くと、小姓に促されて謙信は腰を下ろした。
間髪入れず信玄が言った。
「痛そうだ。縄を解いてくれ」
「は」
小姓が手の縄を解く。謙信はなんの抵抗もせず、それに従った。
「さて」
謙信の縄が完全に解かれるのと同時に、信玄が張りのある声で言った。
「僕が、武田信玄だ。武田の国主をやっている」
「上杉謙信だ」
謙信がすぐに答える。
「うん。知っている」
「私もだ」
珍妙な会話に、信玄は思わず噴出しそうになる。
が、部下の手前そういうわけにはいかない。
信玄はできるだけ真面目そうな顔を努力して作り、問いかけた。
「さて、どうしたものかな。君は県政殿から何か聞いているか」
「私は人質だと」
「まあ、そうなんだけど。ほかに、経緯とか詳細とか」
「知らぬ」
話す機会も問い詰める機会もなかった。県政が謙信の怒りを恐れたのか、反乱後県政と謙信は一度も直接会話を交わしていない。
「うーん。では、こちらから聞くことはなくなってしまった」
「そうか」
「まあ、これで終わってもいいんだけど、せっかくだから。君の方から聞きたいこととか、お願いとかはあるかな」
謙信は答えない。この場に直江愛がいれば、きっと謙信の代わりに問い詰めていたことだろう。なぜ侵略戦争を行うのか、と。しかし謙信は、それを今問うても意味のないことと考えていた。
ただ一つだけ。この広間に入った瞬間から、疑問に思っていたことがあった。
「不思議だ」
「ん?」
「私には。戦場で会ったあなたと今のあなたが、まったく別人のように見える。外見は同じなのに」
「いやそれ本当に別人だから。ランスという名の異人だよ」
なんの気なしに信玄が言った。
透琳も昌景も、信玄を諌めるような仕草は見せなかった。
そう。武田家中では、『形式上は』ランスは信玄とは別個の人間として扱われていた。透琳も昌景も、また信玄も、一度としてランスが信玄であると名言したことはない。
ただし、あくまで形式上である。ランスの実質的な待遇は、明らかに特別で、信玄に近いものがある。
上層部の全員が、表向きには民衆の噂を否定している。にも関わらず扱いは噂そのもの。
矛盾した状況は、逆説的に噂を加速させる。――ランスは信玄その人であるが、事情があって、表向きには名言できないのだ――という噂を。
このような荒業を可能にしたのは、三つの要因があった。四将軍への家臣団の畏敬の念、信玄とランスの容貌の完璧な合致。そして何よりも、信玄への絶大なる信仰があってこそだ。
が、内情を知らぬものがそんな噂を知る由もない。
謙信は信玄の言葉を額面どおりに受け取り、単純に別人だったのだと理解した。
「……やはり、そうか」
ほっとしたような、びっくりしたような。
そんな表情を謙信が見せた。信玄の周りを固める将軍達は、軍神が見せるその表情に、驚きを隠せずにいた。
が、信玄だけは特に気にした様子もなく、言葉を続けた。
「うん。で、他になにか、言いたいこと、聞きたいことは?」
「……いや」
「そうかい。じゃ、話はこれで終わりだ。下がっていいよ。みんなもご苦労様」
信玄の一言で、会見は終わった。
戦国のJAPANにおける大国の国主、英雄と呼ばれる者同士の対面にしては、あっけない終り方だった。
そして、あっけなく終わらなかったのがその次だ。
謙信が大広間を出て、案内のもと廊下を歩いていた。
その途中、先の会見のことを思い出す。
武田信玄は、侵略戦争を好んでするような人には見えなかった。だが武田家の動向はこのうえなく好戦的だ。いったいどういうことなのか。
周りの者の意見をよく聞く人のようだが、だからといって芯が無いようには見受けられない。よくわからない――
――などという、謙信にしては珍しく知的な思考は、一人の男がその視界に映ると同時に、あっけなく打ち破られた。
「ん? おお、謙信ちゃん!」
廊下でランスと出くわした。それだけだ。
しかしそれは、謙信にとってはとんでもない一大事だった。
「っっ! !?」
まず視覚が反応する。があっと開いた口元に、謙信は押さえ切れぬほどの愛しさを感じた。
次に聴覚が反応を示した。ランスの声が耳を素通りして脳髄を直撃した。乱暴な言葉遣いが謙信の三半規管をぐわんぐわんと揺らし、感情回路を一気に焼け焦げさせた。
最後に思考が爆発した。どかん、という単純な爆発音が、謙信の脳内に響きわたった。
その次の瞬間。謙信の視界が、ぐらりと揺らいで回った。
「おわ! んな、どうしたーーーっ!?」
慌てた風な声は、謙信の頭を更にヒートアップさせ、意識を完全に失わせた。
前のめりに倒れたのに、なぜか衝突音はしなかった。
「あ、お目覚めですか?」
その可愛らしい声で、謙信は目を覚ました。
「……ん」
謙信はゆっくりと上体を起こす。
布団に寝かせられている、ということだけを認識しつつ、謙信はその女性に問いかけた。
「……あなたは」
「はい、シィルといいます」
「そうか。ところで」
ぐーーーーーーーーーーー
謙信が何かを言いかけたところで、盛大にお腹がなった。
美貌を誇る謙信にはあまりに不似合いな音だ。
シィルは驚きを隠せずにいたが、持ち前の気の良さを発揮し、すぐに提案する。
「ご飯にしますねっ」
「……すまん」
「すいません。おかずは、いま切れてるみたいで」
「かまわぬ」
シィルはしゃもじを手に取ると、茶碗に山のように飯を盛った。その手使いは馴れたもので、謙信の目から見ても板に付いていた。
JAPANに来て一ヶ月と経っていないにもかかわらず、なかなかの適応力である。
「はい、どうぞ」
「ん」
謙信は素直に茶碗を受け取ると、いただきますと一声呟いた。
そして箸を掴み飯をかっこんだ。
箸の先が凄まじい勢いで茶碗と謙信の口との間を往復している。とてつもない箸使いだ。
「え」
五秒と経たぬうちに、茶碗は米粒一つ残さず空になった。
謙信の箸使いがなせる技である。剣技を応用した神速の正確さと速さを誇っている。明らかに才能を無駄遣いしていた。
「ん」
謙信が口をもぐもぐさせながら、茶碗をシィルに突き出した。
整った顔は無表情のままだ。だがそのらんらんと光る目からは、とんでもない勢いで明確な意思が伝わってくる。
すなわち『おかわり』と。
シィルは眼を白黒させながら、慌てて釜をもう一度開け、しゃもじを入れた。
おかわりを十回ほど繰り返して、謙信はようやく箸の動きを止めた。が、その理由は満腹になったからではない。単に釜が空になったからだ。
謙信はシィルからその事実を聞くと、残念そうに茶碗を置いて手を合わせた。
ごちそうさまと静かに呟く。
『「居候 三杯目には そっと出し」覚えたわね?』
親友の教育の思い出が、ふいに謙信の脳裏をよぎった。
それは、謙信と愛が北条の城に同盟に出かけたときのことだ。
用意された歓迎の席において、遠慮なく食べて欲しいという誘いを真に受け、謙信は三十二回ほど飯のおかわりを繰り返した。その後帰り道で、愛が呆れるように言った諫言だった。
食べ終わってから言うあたりに愛の諦めが表れていた。
今後何らかの教訓になってくれればなーという程度のものだったようだ。
それをごちそうさまを言った後に思い出しても、何の役にも立たない。今から吐き出すわけにもいかない。
謙信はとりあえず心の中で、シィルにごめんなさいと謝った。
「ところで、ここはいずこだ?」
食べてからそれを聞くあたり、食に関しては現金な軍神である。
「はい。謙信様のお部屋です」
「私の部屋だと?」
「あ、はい。謙信様のために、信玄様が新しく用意したのだそうです」
「そうか。すると、廊下から部屋まではあなたが運んでくれたのだろうか」
「え、ええと」
本当はランスが役得とばかりに運んだのだが、それを聞くとまた倒れてしまうかもしれない。シィルは心の中でランスに平謝りし、器用にも想像のランスに殴られながら、涙を呑んで嘘をついた。
「はい。そうです」
「そうか……その体でたいしたものだ。すまない、迷惑をかけた」
「は。いえそんな」
が、嘘の意味はまったくなかった。
当の本人がいきなり襖をだだーんと開け、唐突に姿を現したのだ。
「がはははは、ランス様参上! おお、起きたか!」
「っ!?」
謙信を襲う、本日二度目の危機だった。
ランスは布団から身を起こした謙信を見やり、にやりと笑った。
そしてなんの遠慮もなしに、ずかずかと部屋に踏み入ってきて謙信に迫る。数十センチの距離にまで、迫る。
その距離はちょうど、謙信が初めてランスに会ったのと同じ距離だった。
つまり、謙信の絶対防衛線を遥かに越えていた。
「うーむ間近で見るとやっぱ美人だっておわっ!」
謙信はまたもぽろぽろと涙をこぼしていた。
もはや条件反射に近くなっている。
「え、わ、謙信様っ!? だ、だいじょうぶですか!?」
「あ……あ、れ……」
シィルの言葉で謙信はようやく、自分が涙を流していることに気付いた。慌てて手の甲で涙を拭おうとする。
が、とめどめなく溢れる液体の前に、その行為は無駄に終わった。
謙信は泣き顔を見せまいと、ランスの顔から視線を逸らした。
そして、感極まった声でなんとか言い訳をしようとする。
「ぐ……すま、ない。べつに、他意は……ない……の……うっ」
続きは言葉にならない。
嬉しさと悲しさと寂しさとやるせなさ、謙信の持ち得る人間らしい感情の全てが、心の中で各個に爆発してせめぎあい、心からはみ出した部分が涙という形で現れた。
涙がいっそう溢れて、謙信の頬を滝のように伝っていた。頭に血が昇り、顔面が紅く染まっていた。本人がそれを止める術はなかった。
「だーーーー! だからなぜ泣くっ!?」
ランスに理解できようはずもない。謙信の単純かつ難解な感情表現を理解可能な者は、JAPANにたった一人しかいなかった。
「あの、あの、ランスさま。ここは一度、出直しては」
「なんだとう!」
「ひゃっ! でもっあのっ、信玄様とのお約束がっ!」
小さくなりながらも必死で進言するシィル。
その言葉でランスは信玄との約束の内容を思い出した。
『本人が、心の底から同意してればね』
今の状況は、明らかにその約束の正反対であった。
誰かに見られれば非常にまずい。
ランスは悔しそうに歯軋りをすると、乱暴に立ち上がった。
「ぐ、ぐ、だーーーっくそっ」
謙信に背を向け、襖をまたぐランス。
暴力的な足音を立てて、部屋を後にする。
「ええい、シィール!」
が、部屋を出る直前、ランスは怒鳴り声でシィルに言った。
JAPAN屈指の美女を、そう簡単に諦めるような男ではなかった。
「はっ? は、はい!」
謙信の涙を拭いてあげていたシィルが、手を止めて返事をした。
「まともに話ができるように、なんとかしておけ! このままじゃ口説くこともできん」
「う……は、はいっ! わかりました」
「ふんっ」
不機嫌さを隠そうともせず、ランスはどかどかとうるさい足音を立てて、謙信の部屋を後にした。
残されて困ったのはシィルである。
魅力を語るのは良いのだが、というより進んで語りたい程だが、何しろ相手は軍神様である。それもランスを見ると(なぜか)涙を流してしまう女性だ。
いったいどうしたものか、とシィルは目に見えておろおろしている。
そんな明らかに困った風な様子のシィルを見て、謙信は逆に落ち着きを取り戻す。
そして、シィルに問いかけた。
「……あなたは」
それは、謙信が先程から疑問に思っていたことだった。
「ランス……殿の、恋人なのか」
いつものシィルなら、謙信がランスの名前を呼ぶ際に、ある感情を込められていたことに気付いただろう。
「え、はえっ?」
が、その次に続いた言葉が衝撃的だったため、シィルは謙信の真意に気付かない。
「い、いえっ! その。わたしは、ランス様の……ええと、助手です」
シィルが答えた。最後の言葉はぼそりと呟く感じだった。
奴隷と自分から言ってしまうと、希望がなくなる気がする。
かといって恋人と自称するには、シィルは臆病であり過ぎた。
「そうか。だがどちらにせよ、ランス殿の大切な人であることには、変わりないだろう」
この二人の間に、何らかの深い絆があることを、既に謙信は悟っていた。
ランスとシィルの関係を、本能的に見抜いたようだ。
「は、はあ。そうでしょうか」
「ああ。それはきっと、誇ってよいことだと思う」
「え」
「あの……ランス殿の、そのような者になれるとは、凄い人だ。JAPAN中を探しても、そんな大役を満足に務められる人は、きっとほとんどいないだろうと思う」
謙信は思う。あのよく気の付く飯のよそい方は、愛の次ぐらいに素晴らしかった。
そんな理由で誉められたとは露しらず、シィルは照れながら答えた。
「そっ、そうでしょうか? あ、あの、そ、その、ありがとうございます……」
謙信はシィルの反応を見て、心が落ち着いていくように感じた。
自分がどうやら恋をしているらしい相手は、このような良い助手か、あるいは恋人に恵まれていた。そのことを知って、謙信は喜びと安堵を感じていた。
感じたのが嫉妬と悲しみではない辺りが、謙信のとてつもない度量の広さを物語っていた。
照れたままのシィルを見て、謙信は薄く笑う。
そして、ふっと頭を落とし、枕につけた。
「……む」
どうやら気が抜けてしまったらしい。
「あ、大丈夫ですか」
「すまない。調子が、うまく出ないみたいだ」
「いえ、どうぞ休んでください。また明日お話ししましょう。……今度はごはんもおかずも、いっぱい持ってきますね」
「! すばらしいっ…!」
シィルと最後の声に、謙信は至上の幸せを感じながら、ゆっくりと眠りについた。
これから自分がどうすればいいのかを考えながら。
深夜。謙信の部屋に、ことん、と物音が響いた。
その音で謙信の意識がゆっくりと覚醒する。
「起きなさい」
「……」
「こら。さっさと起きなさい。助けに来たわよ」
「……む?」
謙信は目を明けた。そして、目じりをごしごしとこする。
深夜の月明かりの中、何かが、いや人影が目の前にいるように見えた。
謙信はゆっくりと布団から身を起こすと、寝ぼけた声で言った。
「私は夢を見ているらしい」
「はあ?」
「愛がここにいるように見える。声まで聞こえるぞ」
そこには確かに見慣れたおでこがある。
その声は確かに聞きなれたものだ。
「はあっ。馬鹿言ってないで、逃げますよ」
どうやら本物らしい。
謙信はようやく事態を認識して、驚いた風に言葉を発した。
「愛! 本物か!?」
「私の偽者なんて意味がありませんよ。信玄や謙信様ならまだしも」
「しかし、警備が」
「通り抜けました。武田の本拠地にしては、意外と緩いですね。信玄の戦場での印象どおりかもしれません」
「あ、いや。その……彼は、信玄ではなかった」
「ああ。やはり影武者でしたか」
どうでもよさそうに愛が返事をする。実際どうでもよかった。
影武者だから何が変わるか。今となっては、何も変わらない。謙信の想い人が武田の重要人物であることに変わりはないのだ。愛はそう考えていた。
実際には性格その他の面でえらい差があったりするのだが、この時点で愛がそれを知る術はなかった。
「では行きますよ、謙信様。……謙信?」
動かぬ謙信に、愛が怪訝そうに問いかけてくる。
それでも謙信は動かない。いや、動けなかった。
戻りたくないわけではない。心配事は山ほどあるのだ。部下は無事なのか。武田の軍隊に民が怯えてはいないか。寺での毘沙門天への祈りがまだだ。城下町のうまい団子屋のトミさんはまだ健在か。
しかし愛に返事をしようとした瞬間、謙信はランスを、そしてシィルの気持ちよさそうなふわふわの髪を思い出した。
謙信はまずランスのことを考えようとした。
「う」
とたんに頭が爆発しそうな感覚に見舞われて、謙信は慌てて考えを移した。
先ほど世話をしてくれた女性、シィルは、不思議と愛と同じ匂いを感じる人だった。外見も性格も、愛とは全くタイプが違うにも関わらず。
彼女には一宿一飯の恩義があった。
あと四杯目を勢い良く差し出してしまった負い目もあった。
恩義を果たさぬまま逃げ出すのは、裏切るのと同じことだ。
あの県政と同様の行為だ。
それにもし謙信が逃げた場合、彼女が責任を取らされてしまうのではないだろうか。悪くすれば、手引きをしたと疑われるかもしれない。
「すまない、愛。私は」
謙信はつたない言葉でその経緯を説明した、
説明の間、愛はゆるく腕を組んでじっと謙信を見つめていた。
批難も賞賛もせずに、ただ黙って聞き入っていた。
「だから、恩返しをしてからでなければ、帰れない」
そう言って、謙信は愛に深く頭を下げた。
話が終わっても、愛は謙信をそのまま十秒ほど見つめ続けた。
が、やがてため息をつく。その口の中で、しょうのない子ね、と無意識的に呟いていた。
「わかりました。では」
「ああ。見つからぬうちに、愛は逃げ」
「私も人質となります」
謙信の言葉を阻み、愛が強い口調で言った。
同時に、どんと床を強く叩く。
愛が叩いたその場所は、武田の警備の者が仕掛けた警報の罠だった。
数秒のうちにどたんどたんという十人単位の足音が、周辺に響く。
「愛!?」
「おばか」
愛は謙信の頭をこつんと軽く叩いた。
「一番最初に言ったでしょ。私はあなたを、一生守り続けます。言っておきますが断っても無駄ですよ。謙信様といえど、これだけは譲れませんので」
一片の妥協も見せず、愛は断言する。
「……」
謙信はおろおろして床と愛を交互に見やった。手を口に当て、明らかに動揺した様子だ。
が、今からではどうにもならないことに気付くと、その動きをやめる。
やがて落ち着きを取り戻してから、謙信はぽつりとつぶやいた。
「愛は」
その顔には僅かな笑みが浮かんでいた。
謙信は万感の想いを込め、愛に向かって言った。
「おかあさんみたいだな」
「まったく、そのとおりですね」
照れも怒りもせず、愛は当然のように答えた。
愛もまた顔に微笑を浮かべていた。
この二人はずっと昔からそういう関係を続けてきて、その関係は今も変わらないのだった。
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