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1214(建保2)年、下総横曽根の地に、聖人の直弟・ 性信房が道場を建立したことに始まる。1602(慶長7 )年、江戸に移り、1810(文化7)年、現在地に落ち 着く。宗祖聖人御木像(関東御形見の御影)と阿弥陀 如来を並置する珍しい形態の本堂は、天保年間に許可 されたもので、現在の本堂は関東大震災の後、1935( 昭和10)年に再建されたもの。水海道市のL報恩寺と ともに、二十四輩巡拝の第一番として有名である。ま た、現在東本願寺(真宗本廟)所蔵の『教行信証』は 、元来この報恩寺に伝来したものであることから、「 坂東本」と呼ばれている。(真宗大谷派本山ホームペ ージより) 2005/09/14 所謂、坂東報恩寺、24輩の1番の1. 入口は山門、鉄筋コンクリート。入ると境内。正面に 鉄筋コンクリートの本堂。山門の左に鐘楼、区有形文 化財、梵鐘は1648〈当時は八丁堀でした)藤原清 光の鋳造、なかなか立派な出来だ。本堂の右は庫裏。 本堂の左には催し場。墓所は無いので離れ地にあるの だろう。縁起によると、1214に性信(しょうしん )房により開創。始めは下総の国横曽根(現茨城県水 海道市)であるが、1602に江戸に移転。市中を3 転し、1810に、現在地に至る。 交通:地下鉄浅草線の稲荷町駅下車、浅草通りで東へ 行き次の信号松が谷1で左折、北へ向い、次の 信号東上野6の角。 |
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1214(建保2)年、真言宗の廃寺を再興したのが始ま りと伝えられる、「横曽根門徒」の中心的存在の寺院 。境内に入ると大きな菩提樹と銀杏の木がある。菩提 樹は聖人、銀杏は蓮如上人が植えられたと伝わる。少 し離れたところに性信房のお墓がある。また、水海道 西中学校の前には親鸞聖人が船を繋いだと伝わる「舟 つなぎの松」がある。1577(天正5)年、戦禍を受け て焼失したが、その後1602(慶長7)年に徳川家の援 助を受けて江戸に寺基を移したのが東京のO報恩寺の 始まりといわれる。後年、ここ横曽根の旧地に本堂が 再建されて、現在に至る。(真宗大谷派本山ホームペ ージより) 2001/10/17 下総報恩寺 なかなかの伝統を感じるお 寺。住職さんの法話もまた良かった。前の道を100 mほど行ったところの道端に、親鸞舟つなぎの松があ る。枯れたとかで若い松があった。 本堂は趣のある浄土真宗らしいお寺でそれなりに美し く整っていた。 |
![]() 境内 ![]() 御影堂 ![]() 如来堂(阿弥陀堂) |
真宗高田派本山専修寺(三重県津市一身田)の旧地。 1226(嘉禄2)年の草創と伝えられる。御影堂には親 鸞聖人自刻と伝えられる聖人等身の御影が正面に安置 され、向かって右には真仏上人(2代目)の木像を、 向かって左には顕智上人(3代目)の木像を安置する 。また、如来堂には聖人が長野の善光寺から迎えられ たと伝えられる「一光三尊仏」が安置されている。顕 智上人は親鸞聖人の葬儀を執り行った一人とされ、そ の折に持ち帰った御遺骨を納めた廟所が境内にある。 (真宗大谷派本山ホームページより) 2005/10/12 高田の専修寺といい、24輩の2。開基 は真仏房だが、お寺では、初代は親鸞聖人で、2代目 が真仏上人、3代目が顕智上人ということだ。入口の 石柱には真宗根本道場とある。縁起によると、親鸞聖 人が稲田に居る時に、大内氏一族の懇請により一宇を 建てたのが始まりとのことで、開基は親鸞聖人となっ ている。そのとき、信州善光寺感得の一光三尊仏を本 尊とし、2代目真仏、3代目顕智に受け継がれて東関 東における初期真宗教団の根本道場として栄えたとあ る。なお、1465、10代目の真慧は伊勢一身田に専 修寺を作りこれを本山とした。それでここの高田の専 修寺は旧本山と云われる。また御影堂、如来堂などは 江戸時代の再建であるが、ただ一つ入口の総門だけは 草創当時のままのものであると。素晴らしいことだ。 入口にはまず小川に橋がかかり、その先が総門である 、茅葺の医薬門で、県指定有形文化財。その右に長屋 門があり、奥は庫裏であるが、これが茅葺のままの大 きな建築で堂々だるもの、いまも現役で寺務所として 活躍中だ。総門を入ると、右に宝蔵、これは蔵造り。 正面に進むと50mで楼門、2階建の門、1688の 建立で県指定有形文化財。その先50mで如来堂、こ れは一般には阿弥陀堂だ。本尊は一光三尊仏、これは 秘仏として一年に1回ご開帳とのことある、1701 年の建立で国指定有形文化財。楼門から右への参道を 行くと、御影堂でこれは親鸞聖人、真仏上人、顕智上 人を祀る、規模壮大なお堂だ。如来堂と御影堂との間 に鐘楼、1849の建立、梵鐘は1680藤原重正の 作。その奥に太子堂がある。御影堂への参道の右には 鼓楼(つづみろう)1846建立、とその脇に御成門 があってその奥には賓客の宿所もあるそうで、朝廷な ど大事なお客人のときには、歓迎の意味で鼓を鳴らし 、御成門から入るのだそうだ。また御成門の隣には涅 槃堂があり、これは素晴らしく大きな金箔の釈迦如来 涅槃像が安置されている、元禄年間の作で県指定有形 文化財。 交通:大変不便なことろで、真岡鉄道の久下田駅の東 5km、地元では大変有名で誰にきいても教え てもらえる。私は何度でも道を聞き、辿り着い た。標識もあるので、わかりやすいはずだが田 舎のことで迷って当たり前である。 |
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無量寿寺(むりょうじゅじ)<鳥栖>1221(承久3)年、 当地を治めていた地頭の妻が難産の末に亡くなり、当 時禅宗であったこの寺に葬られた。しかしその妻が幽 霊となって土地の人を恐れさせていたため、稲田に住 していた聖人の済度を仰いだところ、往生の素懐を遂 げたという伝承をもつ。聖人はこの幽霊済度を機会に 、当地に3年ほど滞在し、この寺を弟子の順信房に与 えたという。以降、当寺はこの地を一度も動いていな い。寺宝として覚如筆・土佐光信画の『拾遺古徳伝絵 』(法然上人の伝記・国重文)があり、境内には本堂 ・山門や珍しい形状の鐘楼堂などがあり、県の文化財 に指定されている。(真宗大谷派本山ホームページよ り) 2005/09/08 24輩の3の1。本尊は阿弥陀如来。縁 起によると、806に平城天王の勅願寺として建立さ れた。後に親鸞聖人が1221から3年間このお寺に 住む。阿弥陀如来を自ら刻んで本尊とし、親鸞聖人の ゆかりの寺になった。親鸞聖人が去るとき、弟子の順 信房にこの寺を託した。急な石段75を登ると山門が あり、境内となる。正面に本堂、屋根は茅葺き。左に 朱塗りの鐘楼。右に庫裏、鉄筋コンクリート2階建。 庫裏の右に墓所。 交通:国道6号が石岡駅の手前でJRを越えると直ぐに 右に道をとり、これが国道355線。日立小川 駅のところで左折、1kmで右折、県道8号に 入り、鉾田へ向かう。この道を12km、巴川 駅を越した辺りで茨城町へ向かう道に入り、 2,5km。 |
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無量壽寺(むりょうじゅじ)<下富田> 鳥栖のL無量寿 寺と開基を同じくしているが、現在は鳥栖と違い、大 谷派に属している。2ヵ寺に分かれたのは、開基・順 信房が隠居したことに始まるとも、当寺11代目の順巴 が鳥栖から当地に隠居したことからだともいわれてい る。順信房の父・藤原信親の神官像や、関東離別の聖 人像などを蔵している。(真宗大谷派本山ホームペー ジより) 2005/09/08 24輩の3の2。石柱の入口を入って、 山門、参道に右に鐘楼、参道は右へ曲がり正面に本堂 、鉄筋コンクリート。本堂の左は庫裏。本堂の裏は墓 所。 交通:鳥栖の無量寿寺からさらに北へ2,5km。 |
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如來寺(にょらいじ) 当寺の原初は、霞ケ浦に面した 木原という地に結ばれた草庵であるという。この草庵 は、聖人が村人の請いによって湖の沖合に光るものを 網にかけたところ、一体の阿弥陀如来像であったため 、この縁を喜ばれて建てられたものといい、後に現在 の地に移転してきた。開基とされる乗然房は、同じく 聖人の弟子である順信房の父・藤原信親を兄に持ち、 1215(建保3)年、稲田の地に聖人を訪ね、帰依した (真宗大谷派本山ホームページより) 2005/09/08 24輩の4.「聖徳太子浮足の像」、町 指定有形文化財、高さ63cm、木彫の立像、121 5乗然房が親鸞聖人から形見として賜った。現在の寺 は1498当地に移転。入口は山門、参道50mで2 階式の門で境内となる。正面に本堂。左は墓所。右は 庫裏。 交通:八郷町を東西に走る石岡下館線で、八坂神社の 角を北へ曲って50m。 |
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、 開基・信楽房は、下総の太守・相馬義清と伝えられて いる。当時、義清は弘徳寺のある新地(かつては新堤 と呼ばれていた)に住していたが、1212(建暦2)年 、聖人の教化によって自分の館を道場となし、信楽と いう法名を賜った。信楽房は一時、聖人の息男・善鸞 を支持して聖人のもとを離れるが、後に覚如上人が当 地に来たとき、再び弟子に加えられたという。「宗祖 聖人六十歳関東御旅立の御影」をはじめ多数の寺宝を 有する。(真宗大谷派の本山のホームページより) 2005/09/02 24輩の5.木造阿弥陀如来立像、八千 代市指定有形文化財、像高97.8cm、室町後期の 作、本堂内に安置、本尊ではない。開基は信楽房。入 口から100mで山門、入ると右に庫裏。右曲がりの 参道で右に鐘楼、正面に本堂、左い催し場。さらに左 は墓所。墓所の前に開基堂、お堂の中に坐像が見えた 、これは信楽房の像で、江戸時代の作。 交通:354号線の岩井交差点から北へ12km、蕗 田交差点で東へ200mで東蕗田分岐点、ここ で北へ300m。 |
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八千代にある弘徳寺と開基を同じくするが、当寺の 寺伝では、開基信楽房は京都に向かい、88歳の聖人に 面謁して許され、御寿像をいただいたとしている。ま た、善鸞については当寺を聖人の旧跡と慕って滞在し 、当地で往生したといい、墓所がある。当寺の住職は 、1573までは八千代の弘徳寺と兼任であったが、 12代目・永西の時、専任となった。(真宗大谷派本山 ホームページより)。 2005/10/21 24輩の5番。開基は信楽房。入口を入 ると、正面に本堂、掲額に親縁山とあり、ようやく弘 徳寺であることを確信する。なにしろ、表の道路に矢 印付きの表示があるだけで、50m入ってから境内と なりますが、そこに何も標識が無いので心配だった。 本堂の右は門徒会館、その前に庫裏。さらに奥は墓所 で広く散在している。淋しい感じのお寺だ。 交通:東名厚木ICで下り、129号線だったが、そ のまま北へ行き、しばらくして小田急を跨ぐ跨 線橋を越したところでそのまま246号線にな る。これをさらに二筋ほど行き、市立病院信号 412号線の標識で左折、及川仲原信号で左折 、100mで信号がありこれを越して直ぐ、右 側に寺の標識がある。 |
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関白九条兼実の10男、幸実は、無実の罪で下総・一 ノ谷に配流された。その後、常陸・稲田の地で真宗の 教えを弘められている親鸞聖人に帰依し、成然という 法名を賜ったという。後に成然は、一ノ谷にほど近い 三村の地に聖徳太子建立との伝承をもつ廃寺を復興し 、居を移した。1590(天正18)年、酒井雅楽頭重忠の 懇請によって武蔵・川越に移り、酒井氏の転封に伴い 、現在の地に落ち着いた。本願寺が東西に分派した際 、幕命によって当寺にあった親鸞聖人の御像を東本願 寺(真宗本廟)に移したことから、「お里御坊」の名 で呼ばれる。宗祖筆『唯信鈔』をはじめ、寺宝も数多 い。〈真宗大谷派本願寺ホームページより) 2005/09/07 入口を入って50mで境内。左は墓所。 墓所の前に鐘楼、梵鐘は1336の作と推定。正面に 本堂、鉄筋コンクリート薄翠色のお寺だ。右は庫裏、 鉄筋コンクリート2階建。境内の右に聖徳太子会館〈 催し場)。その裏つまり境内の右にも墓所。縁起によ ると、成然(じょうねん)房(藤原幸実、親鸞聖人の 従弟)により猿島郡三村庄に創建。その後、酒井重忠 の招きで川越に移転、酒井氏が上野国厩橋に転封の際 、現在地に移転。国指定重文、県指定有形文化財、市 指定有形文化財、など多数。 交通:前橋駅下車、左に200m、17号線となり、 これを北へ500m、千代田町3信号で右折、 50m |
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前橋、三村の妙安寺とおなじく、成然房を開基とする 。成然房は配流になった当初、下総・猿島郡の境とい う地の豪族・長五郎の館に身を寄せ、そこから稲田の 親鸞聖人を訪ねたという。成然房は長五郎方に3年住 み、その後この一ノ谷に庵を結び、一ノ谷大法院妙安 寺と号した。境内からほど近い地に、成然房の墓所が ある。(真宗大谷派本山のホームページより) 2005/09/02 24輩の6の2.昔は三輪宗最頂院葛城 寺であったが、廃寺になっていた。1221稲田の住 居したいた親鸞上人の教化をうけた成然房が1233 に一の谷妙安寺として再興した。入口を入ると右は墓 所。次に太子堂。正面に本堂、少し荒れている。本堂 の左も墓所と鐘楼が並びさらに左に山門があり山門の 先には参道が100mほど続いて情緒たっぷり、これ は旧道であろう。本堂の右は庫裏。 交通:境町の354号線で、伏木の西に一の谷という 地名があり、そこで標識に従う。 |
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元来は推古天皇の時代、聖徳太子が創立したといわれ 、三論宗最頂院葛城寺と称していた。1210(承元4) 年、常陸・稲田の地において親鸞聖人に帰依した一ノ 谷の成然房は、聖徳太子の夢告によって当寺を再興し たという。毎年4月12日には太子講がつとまり、「聖 徳太子絵伝」(国重文)が奉掲される。他に、宗祖御 木像、開基成然房木像などが寺宝として伝えられてい る。(真宗大谷派本山のホームページより) 2005/08/31 24輩6の3。親鸞上人の従兄弟にあた る人で、1221に親鸞上人が稲田におられた時に聖 人から成然房という法名をいただき、修行を積んで、 この地に1232草庵を建て、開創した。入口から2 0mで山門、入ると左に鐘楼、ついで500年の老木 イチョウ。正面に本堂、右に庫裏。墓所は離れ地にあ った。 交通:古河の町から利根川沿いに走る国道354号線 があり、これを古河駅から19km南下。また 岩井市役所のある中心からは西北へ4km。 |
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当寺は元来、聖徳太子が御幸したという伝承のある寺
で、極楽山聴衆院聖徳寺といっていた。後、天台宗の
寺院となったが、二十四輩の一人、西念房が真宗に改
めたのが始まりである。西念房の孫の代、武蔵・野田
にあった西念房の道場が火災に遭ったため、当地に宝
物などを移した。江戸時代初期に寺号を聖徳寺から西
念寺に改めた。境内には本堂、太子堂等が建ち、親鸞
聖人お手植えの松がある。(真宗大谷派本山ホームペ
ージより)
2005/08/31 24輩の7の1.掲示板「親鸞上人教室
、仏教を聞く会、勤行を教わる会などの案内がある」
。昔は天台宗聖徳寺だったが、西念房により改宗と。
本尊は阿弥陀如来坐像、県指定有形文化財、平安末期
の作。入口を入ると左に鐘楼、次に太子堂。右には親
鸞聖人立像。正面に本堂、その右は庫裏。本堂の左に
鉄筋コンクリートの宝物蔵がある。その裏は墓所。
交通:354号線の岩井市役所から2km東南へ行く
と辺田(へた)という交差点に出る。ここの南
50m。寺の前は辺田三叉路バス停だ。
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古河の宗願寺
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越後の親鸞聖人を訪ね、真宗の教えに帰依した西念房
は、武蔵・野田の地に道場を建立した。3代目・西祐
のころ、南北朝の争乱を避けるため、二班に分かれて
疎開し、一班は西念房の出身地信州へ、一班は上州へ
移った。上州へ移った方が後に、古河の地に落ち着い
たのが当寺である。寺宝として覚恵・覚如・西念の三
師を描いた三人連座の御影を蔵する。(真宗大谷派本
山ホームページより)
2005/08/31 24輩7の2。本尊は木造親鸞上人像、
県指定有形文化財。入口の左から本堂の裏まで続いて
墓所。入口の右には親鸞上人ご旧跡の石碑。参道の正
面に本堂。右に庫裏。
聖人に随伴した西念房が開基のお寺で、本堂には木
像の真影が安置されています。
交通:古河駅から西へ300mで南北に走る幹線道路
に出る。これを南へ250m、西へ350m。
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![]() ![]() 本堂 ![]() 太子堂 |
開基・西念房はもと、八幡太郎源義家の子孫、井上貞 親といった。父が合戦で亡くなったことに世の無常を 感じ、当時越後の国分寺にいた親鸞聖人を訪ねて帰依 し、西念と名のった。聖人が関東の地を訪れた時、井 上家の領地が武蔵・野田にあったため、聖人から賜っ た聖徳太子像を安置して道場を建てたという。後に覚 如上人が107歳になった西念房のもとを訪れ、聖人 在世の頃の話を聞いて感激し、西念房の長寿にふさわ しく寺号を「長命寺」とした。境内には、文化年間の 再建にかかる見事な彫刻が施された太子堂(写真)が ある。(真宗大谷派本山ホームページより) 2005/10/04 山門を入ると境内、正面に本堂。左は庫 裏。掲示板「よき人のおおせをこうむりて信ずるほか に別の仔細なきなり」。参道右に石碑「開基聴衆院釈 西念御坊」。その右には太子堂がある。なかなか素晴 らしいお堂だ、市指定有形文化財、歴史を感じるお堂 だ。 交通:東武鉄道野田線、野田市駅下車、駅前を西南へ 500m。 |
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2005/09/28 棚倉の蓮生寺という。24輩の8の1. 街道筋で賑やかな商店街に入口があり、参道50mで 山門、変わった山門だ。境内は広く、右に鐘楼、正面 に本堂、本堂の左に庫裏。本堂の右と裏は墓所。掲示 板「亡き人を案ずる私が亡き人から案ぜられている」 「非難するだけの人では人は遠のく」「生きててよか った、生まれてきたよかった。生きることは素晴らし い。今日出会えてよかった。あなたに有難う」。 交通:棚倉駅を出て道を北へ200m。 |
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(しょうれんじ)当寺の創立は古く、670(天智9) 年、後の天武天皇がこの地に太子堂を建てたのが始ま りである。その後、鎌倉幕府の重臣・畠山重忠の次男 である重秀が出家し、常陸・稲田の親鸞聖人を訪ねて 證性と名のり、当寺を真宗の道場として改めたという 。寺号の「青蓮寺」は、證性房が聖人とともにこの寺 を再興した際、青い蓮の夢を見たからであるという言 い伝えがある。(真宗大谷派本山ホームページより) 2008/09/26 東連池の青蓮寺〈しょうれんじ)。24 輩の8の2.性証房の開基。天武天皇が若い頃に67 0、この地に数年間とどまっていた。帰還後にこの地 に仏さんを安置したという。後に畠山重忠の3男重秀 は重忠の没後に1205出家、東空と号し、常陸の国 を巡回したときに親鸞聖人に遇い、帰依した。それで 性証房となる。1218に親鸞聖人とともにこの地に 来て、寺があまりに荒れていたので、清掃し、真宗の 寺とし、青蓮寺と改名した。本尊の阿弥陀如来立像は 県指定有形文化財。入口の石柱から石段15で境内。 正面に本堂、左は墓所、右は庫裏。 交通:常磐高速道の日立南太田ICから293号線を西 へ9kmで金砂郷町の久米信号となる。これを 北へ4kmで和田信号。さらに100mほど北 へ行って西への分岐路に入り道なりに行くと、 1kmで坂の頂上となり、そこに二股あり、そ れを左に取る、坂を下がって行き丁字路で右に とると、お寺だ。 |
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当寺の開基・善性房は、後鳥羽天皇の第3子・正懐親 王。出家して比叡山にのぼったが、名利の争いを嫌っ て叡山を降り、下総国守・豊田治親のもとにとどまる こととなった。親王は親鸞聖人が下総に来られたこと を知り、小島に聖人を迎えて帰依し、善性と称した。 治親もまた、聖人の弟子となり、倉持(現・石下町倉 持)に「東弘庵処」という草庵を建てて、良信と号し た。善性房は、聖人が京都に帰られるにあたり、稲田 の浄興寺を預かることとなり、倉持の庵の住持に良信 を据えた。これが当寺の始まりである。天正年間に現 在地に移転した。(真宗大谷派の本山ホームページよ り) 2005/09/02 24輩の9.とうごうじ。入口の周囲は 墓所。参道50mで山門、2階式。入って右に鐘楼、 正面に本堂、大きな格式のありそうな本堂だ。本堂の 右は庫裏。左は太子堂かな。そのお堂と本堂の裏は墓 所。 交通:関東鉄道常総線の南石下駅の西で294号線沿 いに看板がある。 |
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是信房は俗名を吉田大納言信明といい、讒言に遭って 越前に流されていた。そこで聖人が越後におられるこ とを聞き、訪ねるが、聖人は既に関東に赴いた後だっ た。信明は後を追って常陸に入り、稲田の草庵に聖人 を訪ね、弟子となったという。信明は是信と名のり、 奥州に真宗を弘めようと、和賀郡一柏から紫波郡石ケ 森へと移って、本誓寺を建立した。1584(天正12)年 、南部公から盛岡の寺地を拝領して移転、現在に至る 。境内には大正年間に再建された壮大な本堂が建ち、 本堂の右奥には是信房の墓所もある。(真宗大谷派本 山ホームページより) 2005/11/16 24輩の10番。入口を入る、左に鐘楼 。その並びに蔵。参道50mで右に、直ぐ左に行くと 、左に本堂正面。奥行きのある大きなお寺だ。本堂の 右は庫裏。本堂の裏と右に墓所。本堂の右端に是信房 の墓がある。縁起によると「奥州和賀郡一柏の是信房 が開基。1215、稲田の草庵で親鸞聖人は京都への お別れに、『後の世の記念に残す面影はただたのむ身 のたよりともなれ』さらにご自身の肖像を彫り、さら に阿弥陀如来尊像を是信房に与えられた。1寺を紫波 郡彦部村松田に創建、いらい52年にわたり布教に努 められた。親鸞聖人より光明一幅を頂く。1266に 86歳で亡くなる。1635、16世賢勝が南岩手郡 米内村に移し、1850に25世の是伝が墓類を村内 三の割に移し、現在に至る」と。盛岡市指定有形文化 財として3点。1 木造阿弥陀如来立像、像高78. 5cm、本尊。2 木造親鸞聖人坐像、像高64.4 cm、「蓮冠の御真影」という。3 木造聖徳太子立 像、像高78.6cm、1796に静岡県中内田村尚 宝院から譲り受けたもの。さらに市指定天然記念物と して、枝垂れ桜が本堂の左にある。 交通:上盛岡駅から東へ300m。 |
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親鸞聖人の高弟24人(二十四輩)の一人、「無為信房」 が文永年間(1264〜75)に会津にて創建したと伝えられ る。その後、各地を転々とし本山預かりとなっていた が、寛政12年(1800)に現在の地に越後国蒲原郡下条村 「宗栄(そうえい)」(和泉屋佐藤伊左ェ門)の尽力によ り再興された。本堂には、「無為信坊」が聖人から形 見としていただいたと伝えられる珍しい等身の「半身 親鸞聖人御影」が安置されている。(真宗大谷派本山 ホームページより) 2005/10/05 越後の無為信寺という。開基は無為信房 、1760に地元の地主佐藤伊左衛門が中興した。国 指定文化財多数。入口は参道へ続く「無為信橋」朱の 橋だ。参道30mで木柱で境内になる。右に2階建の お堂。その奥は蔵。左は鐘楼、その奥に太子堂。参道 の正面に本堂、素朴だが大きなお堂だ。本堂の右に庫 裏。左は墓所。 交通:水原駅から鉄道に沿った東北への道を500m 、右折して東へ150m。 |
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当寺の開基・無為信房は、越後の無為信房と伝承が異 なり、俗名を橘栄住という。栄住は源平の争乱に世の 無常を感じ、稲田の親鸞聖人を訪ねて帰依した。その 後、奥州に真宗の教えを弘めるため、東北各地を回り 、やがて会津に住するようになったという。後、一時 的に会津を領していた伊達政宗が仙台に移った際に現 在の地へ拠を定めた。(真宗大谷派本山ホームページ より) 2005/11/16 24輩の11番。開基は無為信房。入口 は大きな石柱で刻んだ文字も鮮やかだ。50m行くと 赤い山門。なかなか奇麗に修復されている。30mで 左に鐘楼。参道は右に曲がり、左に池、正面に本堂。 左に墓所、右に庫裏。墓所は山門から本堂の左と裏ま で広い。境内は良く手入れが行き届いていた。 交通:東北大医学部病院の東の通りを北へ800m、 西へ200m。寺町の入口で、赤門寺として有 名。 |
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相模の武士・三浦義重が、鹿島神宮に出かけた帰り 、常陸・桜川の地で親鸞聖人に出会い、教えをいただ いて帰依した。義重は善念という法名を与えられ、善 信(親鸞)と義重の名から二字を取って「善重寺」と いう一宇を建立した。はじめ常陸・笠間にあり、後に 寺基を転々として、徳川光圀が水戸藩主の頃に現在地 に移転した。境内には太子堂があり、安置される光圀 寄進の聖徳太子像(鎌倉時代の作)は国の重文に指定 されている。(真宗大谷派本山ホームページより) 2005/09/18 24輩12の1.酒門の善重寺といわれ る。相模の人義重が1216に鹿島神宮に参詣し、桜 川〈水戸市内)で親鸞聖人に出会い、法を聞いて帰依 し弟子になる。1232に1寺を建て、親鸞聖人は善 重寺と命名した。入口から100mで山門、境内に入 る。山門の右は墓所、左は鐘楼。芭蕉が訪れたようで 、句碑があった、「野分して盥(たらい)に雨を聞く 夜かな」。参道の左も墓所。参道の右は庫裏。正面に 本堂。本堂の左に太子堂、国宝の聖徳太子像が安置、 太子16歳のお姿で、徳川光圀が領内で発見し、当寺 へ寄進したと、鎌倉末期の作。 交通:駅前から東へ行くと、やがて道は南へとなって 、鉄道を陸橋で跨ぎ、駅南の大通りに出る。柳 町1信号を東へ800mで東台一信号となる。 ここで南へ折れて、1km。 |
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当寺の開基・善念房は、水戸市の善重寺の善念房とは 異なり、下野守・佐竹昌義の曾孫・南酒出義茂という 人物で、常陸の久慈郡内田の領主であった。仏門を志 し、稲田の親鸞聖人を訪ねて善念と名のり、1213(建 保1)年に一寺を建立し、善徳寺と称した。後、3代 目・善明のとき、現在地に寺基を移した。(真宗大谷 派本山ホームページより) 2008/09/26 鷲子の善徳寺。24輩の12の2.善念 房の開基。山門から入って正面に本堂、これが美和村 指定有形文化財。善念房は元は南酒出六郎義茂といい 、久慈郡内田の領主だ。その地にお寺を建立したが、 のちに3世善明のときに、この地へ移動。本堂は16 30の再建という。本堂の右に太子堂、本堂の左は庫 裏。裏は墓所。 交通:美和村を通る283号線沿いに表示がある。入 口は道路から50mほど入ったところ。県境か ら5km入ったところで照願寺の東2kmのと ころ。 |