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慈願寺(じがんじ)<馬頭>慈願寺は栃木県に2カ寺あり
、いずれも信願房を開基とするが、両寺に伝わる信願
房の経歴は異なる。馬頭町の慈願寺を開いた信願房は
、佐竹昌義の孫・稲木義清といい、常陸・稲木城主で
あった。出家して親鸞聖人に帰依して名を信願房定信
と改めた。1233(天福1)年、下野の粟野鹿崎に道場
を開き、のち覚如上人が立ち寄られ、慈願寺と号した
。その後、寺基を転々としたが、1580(天正8)年、
現在地に再興された。(真宗大谷派本山ホームページ
より)
2005/09/28 馬頭の慈願寺という。24輩の13の1
.信願房が開基。元稲木義春といい、稲木(現在の常
陸太田市)の城主。遁生して慈清と号したが、後親鸞
聖人の弟子となり信願房定信と改めた。1233、常
陸国粟野鹿崎(現在の茨城県桂村)に道場を開く。1
257没。この道場に出入りする和久勝介が信願房に
同行して稲田へ通ううちに弟子となり、久志と号した
。この人が1222にこの地に健武道場を建立、これ
を信願房へ寄付した。後に覚如聖人がご滞在になって
、そのとき、慈願寺の寺号を賜る。入口から寺域に入
ると墓が多い。墓の中の道を左折して50m墓の中を
行くと、山門。さらに参道100mで本堂。本堂の右
は庫裏。左は催し場だ。本堂では、外陣の半分が畳を
上げて椅子席にしてある。お聴聞しやすいな。
交通:宇都宮ICから293号線に入り、氏家、小川
の町を越して、馬頭に入る。馬頭町の中心部か
ら東へ1km、南へ折れ、川を渡ればすぐ寺域
だ。
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慈願寺(じがんじ)<烏山>寺伝によれば、開基・信願房
は1190(建久1)年、那須与市5代の後胤として生ま
れ、那須太郎資村という。常陸・稲田で親鸞聖人に会
って教えをいただき、信願という法名を賜った。1223
(貞応2)年に下野の粟野鹿崎に慈願寺を建立した後
、78歳で往生したと伝える。その後江戸時代に入り、
1680(延宝8)年に現在地に移転している。(真宗大
谷派本山ホームページより)
2005/09/30 烏山の慈願寺という。立派な構えのお寺
だった。入口を入ると、左に鐘楼、右は墓所。正面に
本堂、本堂の左は庫裏、鉄筋コンクリート2階建。掲
示板「子供が親をほんとの親にしてくれる」。街中で
すが端正な町で、まるで武家屋敷の町のような佇まい
の中のお寺でした。お寺も整備されており立派です。
交通:烏山駅から50mで右折、せせらぎ通りに入り
、500m。大きな道路の角。
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親鸞聖人は越後から関東の地に移られ、1215(建保4
)年、常陸・那珂西、大山に庵を結ばれたという。こ
れが当寺の始まりである。翌年、京都三井寺から来た
定信房が聖人に帰依し、後に聖人が京都へ戻られる際
、この定信房に大山の草庵を譲られたという。1391(
明徳2)年、領主の請によって現在地へと移転し、大
伽藍を誇ったが、幕末の天狗党の乱によって焼失した
。聖人の高弟・直弟等453人の名前を記した「太祖
聖人面授口決交名記」が寺宝として伝わる。(真宗大
谷派本山ホームページより)
2002/03/13入口で、門柱はあるが両側は家で建てこん
でいて狭い。でもバスは入った。中には広い駐車場が
ある。右に本堂となる。親鸞聖人は越後から常陸の国
に進められて、ここ那珂西大山の地に念仏道場を開い
た。やがて稲田の草庵に行かれるが、ここを定信坊(
京都三井寺より来られ弟子になった)に譲られた。し
たがって。創建者は親鸞聖人で、2代目が定信坊であ
る。定信坊は独身のため、親鸞の子善鸞上人の子善明
上人が3代目の留守職となられた。爾来、血脈相続に
より現在27代目の法灯をともしている。覚如上人の
とき、大山草庵を改めて証拠山大山禅坊阿弥陀寺とな
った。後に、大山から額田に移され、当時は944坪
の寺域があった。
交通:高速を那珂ICで一般道に下りる。高速の東に
出て、那珂町公民館、那珂町役場、線路を越し
、ひばりヶ丘で左折、北へ向かう。高速を超え
て更に進み、阿弥陀寺に着いた。
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当寺の開基は額田の阿彌陀寺と同じ定信房である。定
信房の没後、親鸞聖人は、一説には善鸞の子ともいわ
れる善明に阿弥陀寺を、弟の覚明に、元来は佐竹氏の
祈願所で天台宗寺院だった当寺を守ることを命じたと
伝えられる。境内に清浄な泉があったことから当初は
「願泉寺」であったが、水戸藩主・徳川光圀が親鸞聖
人の業績に感じ入り「難度の苦海には四十八の願船あ
り」と述べて一字を改めさせた。境内には聖人ゆかり
の大銀杏があり、開基定信房木像などの寺宝を蔵して
いる。(真宗大谷派本山ホームページより)
立派な構えのお寺。よく整備されており、庭のイチョ
ウは親鸞聖人お手植えのイチョウらしい。すごく太い
幹で、立派だった。
交通:西光寺から、きた道を戻り、349号線、29
3号線を戻って、6号線に出る。大和田信号。
ここから水戸方面へ南下。久慈川を越したら、
すぐに左折。そのまま進むと、願泉寺の正面。
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枕石寺(ちんせきじ) 入西房開基、故あって近江・日 野から常陸・大門の地に流されていた日野左衛門尉頼 秋という武士の家に、1212(建暦2)年の雪の夜、親 鸞聖人が訪ねてこられた。一夜の宿を請う聖人を頼秋 は、「仏道を修する者が雪や寒さを苦にして安楽に宿 をとるとは何事か」と追い出してしまう。その夜、守 り本尊の夢告により外に出た頼秋は、石を枕に念仏を 称える聖人の姿に改心し、聖人の教えを受けて帰依し た。頼秋は入西と名のり、邸宅を寺として「枕石寺」 ができた。倉田百三の戯曲「出家とその弟子」のモチ ーフともなった枕石の伝承を伝える寺院である。(真 宗大谷派本山ホームページより) 2002/03/13上宮寺から次は北へ上って枕石寺である。 縁起:親鸞聖人が、常陸の国大門の里に来て、一夜の 宿を請われたが、日野佐衛門尉頼秋は「樹下石上を宿 とするは釈迦のお弟子のならい」とて宿を貸さなかっ た。それで石を枕に雪の降る中で横になられた。夜中 に日野頼秋に観世音菩薩のお告げがあり、屋敷内に招 き入れる。その夜、御弟子となり、入西房道円と法名 を頂く。枕石なる寺名も聖人より頂く。 面影をよよに残してひたすらに 弥陀にかしずく便りともなれ 親鸞 人ごとにかくし置きつる身のとがを しるや仏の心はづかし 入西房 |
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かつて常陸・久慈郡の領主だった佐竹義繁は、世の無
常を感じて出家した後に、稲田の親鸞聖人を訪ね、そ
の教えに帰依し、入信という法名を授かった。常陸・
穴沢に庵を結んだ入信房を訪れた聖人は、西の山腹が
光るのを見つけて掘り起こすと、阿弥陀如来像であっ
た。喜んだ入信房らはこの像を本尊として御堂を建立
した。これが壽命寺の起こりであるという。境内には
聖徳太子像を安置した太子堂などがある。(真宗大谷
派本山ホームページより)
2008/09/26 野口の寿命寺。24輩の16.駐車場か
ら入る。本堂の前に来ると、正面に山門がある。それ
で山門のところへ行くと、普段は使用されてない参道
が続いていた。相当の登ってきたので、参道から歩く
となると相当に辛い道だ。それで使用されないのであ
ろう。山門の右に太子堂、ここには聖徳太子16歳の
父母孝養を尽くす姿で、これは村指定有形文化財、像
高は94cm、鎌倉時代の作で親鸞聖人の作と云われ
る。山門の左は鐘楼。本堂の右は庫裏。さらに右は駐
車場。本堂の裏山は墓所。帰りの下の道の入口にも山
門があった。これは登り道の入口にあり、今は使用さ
れていない。入信房の開基。
交通:御前山村の幹線道路123号線に標識があり、
あとは人に聞きながらたどり着く。田園の中の
道を行き、寺自身は岡の中腹だ。
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当寺の開基・念信房は、俗名を高沢氏信といい、高沢
城主であった。観音の夢告と父の遺言とにより、常陸
・稲田に親鸞聖人を訪ね、教化を仰いだ。念信という
法名を賜った氏信は、那珂小舟の地に草庵を建て、聖
人も6度その地を訪れたという。後、寺基は現在地に
移る。境内の太子堂に安置された聖徳太子木像は、県
の文化財に指定されている。(真宗大谷派本山ホーム
ページより)
2008/09/26 美和の照願寺。24輩の17.入口から
参道が登り坂で続く。正面に本堂。本堂の左に鐘楼と
太子堂。太子堂には聖徳太子立像が安置、これは県指
定有形文化財。本堂の右は庫裏。坊守のおばあさんが
一人で管理していると。淋しそうだった。
交通:美和村を通る293号線沿いで茨城県と栃木県
の県境から3kmのところ。
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美和村の照願寺と開基を同じくする寺で、元禄時代に
別立されたと伝えられている。当初は小山御坊と呼ば
れた寺院で、文化年間に美和村・照願寺から西信とい
う僧が入寺し、照願寺と名のったという。寺蔵の「親
鸞聖人伝絵」は、東本願寺(真宗本廟)に蔵される「
親鸞聖人伝絵(康永本)」(国重文)ができた翌年、
これを書写し、覚如上人が外題を書き加えたもので、
国の重要文化財に指定されている。(真宗大谷派本山
ホームページより)
2005/10/23 照願寺(しょうがんじ)は小山御坊とも
云う。24輩の17の2.開基は念信房、俗姓は高沢
式部大槻氏信といい、常陸の国高沢山に居城を持つ武
士。稲田の草庵にて親鸞聖人と出会い、御法を聴聞し
て弟子となる。法名は念信。「紙本着色親鸞聖人絵伝
4巻」は国指定の重要文化財、現在は東京国立博物館
で保管。入口は石段で15段、山門となり境内。左に
鐘楼。その並びに蔵。右に庫裏。正面に本堂、鉄筋コ
ンクリート、昭和61年の再建である。掲額は金箔の
地に「無量殿」と。本堂の裏手は墓所。
交通:JR外房線の大原駅下車、南へ100mで東の
港への道になり、これを東へ500mで国道1
28号線と交差し大原漁港入口という名称の信
号である。さらに直進500mで寺になる(手
前隣に寺があり大原不動尊という。こちらのほ
うが有名かもしれない。)
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常陸の国司・佐竹義照の曾孫にあたり、その戦いぶり
で近隣に名を馳せた八田七郎知朝は、日頃から仏道を
志したいと願っていた。ある時、知朝の領内の太子堂
に親鸞聖人が参詣されると聞き、駆けつけた知朝は、
その場で聖人の教えを聞いて帰依し、入信の法名を賜
った。那珂郡八田の邸宅を寺院とし、常福寺と称した
。後、中世の戦乱に巻き込まれ、1541(天文10)年に
現在地に移る。開基木像や親鸞聖人餓鬼済度の絵図な
どを蔵する。(真宗大谷派本山のホームページより)
2005/09/02 24輩の18.開基は入信房。入口を入
ると右は墓所。参道は左へ曲るが、右い鐘楼、正面に
本堂。綺麗なさっぱりしたお寺だ。本堂の左は庫裏。
1216の創建。信楽房は親鸞聖人の上洛に随伴して
行くが、尾州日比野の正善寺で1237往生。寺は1
541にこの地に移転。本堂は平成元年の改築。
交通:つくば市の西大通入口交差点から南東に50m
、信号で左折、500m、突き当たりで右折、
100m。、
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常陸・板敷山に居し、一帯にその徳を慕われていた山 伏・弁円は、念仏の教えをすすめる親鸞聖人の声望が 高まることを憎み、聖人を害そうと稲田の草庵を襲う 。しかし、聖人の尊顔に会った瞬間、心を改めて弟子 となり、明法と名のることとなった。その後、明法房 は聖人のそばにあって給仕を怠ることがなかったとい う。当寺は1221(承久3)年、明法房によって創建さ れ、一旦常陸・額田に移転した後、1584(天正12)年 に現在地へ移った。山伏・弁円の遺品をはじめ、石山 合戦の戦功により本山から授与されたという「聖徳太 子絵伝」などを蔵している。(真宗大谷派本山ホーム ページより) 2002/03/13上宮寺縁起:山伏の弁念=明法房の開基、 |
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稲田の草庵に親鸞聖人を襲ったものの改心し、弟子と
なった山伏・弁円(明法房)を開基とする。真宗に帰
依した明法房は、かつて住んでいた塔之尾に帰って一
宇を建立、これが当寺の始まりである。明法房はこの
地で真宗の教えを弘め、亡くなったとされ、境内地近
くに墓所がある。(真宗大谷派本山ホームページより
)
2005/09/21 24輩の19の2.東野の法専寺。開基
は明法房。明法房の亡くなった場所であり、墓所もあ
る。入口から石段15で山門、境内の正面に本堂。本
堂の左は鐘楼と庫裏。右は庫裏と貴重品を仕舞う蔵、
鉄筋コンクリート。その右に墓所。
交通:大宮町を横断する118号線の北に東富交差点
がある。ここで西に国道293号線があり、そ
れを5km行くと、玉川信号があり左折して2
00m。
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当寺の開基・慈善房は、俗名を壷井大学守重義といっ
た。讒言に遭って関東に下り、常陸の玉川辺村村田郷
という所にある太子堂を参詣したところ、夢告があり
、稲田の草庵に赴いて親鸞聖人の弟子となった。慈善
と名のった重義は、この地にとどまり、念仏の教えを
弘めた。以来750年、当寺は移転することなく、こ
の地にある。太子堂以来の由緒をもつ等身大の聖徳太
子像は、県の文化財に指定されている。(真宗大谷派
本山ホームページより)
2005/09/21 24輩の20番。石沢の常弘寺。開基は
慈善房。入口を入るとまず参道の左に併設の若草幼稚
園。さらに行くと、庫裏。その並びに本堂。参道の右
には鐘楼、大きく立派だ。参道の正面は墓所、本堂の
裏も墓所。
交通:大宮町へ向かって国道118号線を行き、大宮
バイパスに入る。大宮警察を過ぎ、鉄道を越え
て、すぐ大宮第二中学がある。その裏だ。
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ひたちなか市館山にある当寺は、小高い丘の上に真
宗寺院が密集した「館山七カ寺」の一つとして親しま
れ、一種独特の景観を形作っている。開基・唯仏房は
1214(建保2)年、常陸・稲田におられた親鸞聖人に
帰依した藤原隼人佑頼貞という人で、那珂郡枝川村の
自邸を道場としたのが当寺の始まりである。戦国末期
に水戸城内に移転し、ついで1649(慶安2)年、現在
地に移った。壮大な伽藍を誇ったが、1864(元治1)
年、天狗党の乱で焼失した。(真宗大谷派本山ホーム
ページより)
2005/10/07 館山の浄光寺という。24輩の21。開
基は唯仏房。この人は常陸国吉田郡枝川村の住人で藤
原隼人佑頼貞で、親鸞聖人に帰依し、1222、法名
唯仏坊浄光を賜り、枝川村に一宇を建立、吉田御坊と
いった。後に水戸城内に移り、1549に常盤村に移
転、1649には徳川家光公の寄付により湊村に移転
、1696には水戸光圀公の寄付により、1698、
現在地に移転した。1864には天狗党の乱により焼
失。このように寺運の盛衰にあったが、法灯は引き継
がれて現在に至る。
交通:勝田駅から出る茨城鉄道湊線の那珂湊駅の南に
県道6号線が東西に走る。これを西に400m
で交差点、北へ900m、途中に湊線の踏切を
越える、右折して道なりに登り400m、名平
洞の側を通る、小高い丘の上に館山7ヶ寺があ
り、その入口のお寺だ。
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唯信寺(ゆいしんじ)笠間街道沿い、宍戸城の城主であ
った宍戸知家の三男・義治は、若い頃から仏教に興味
を持ち、稲田の草庵におられる親鸞聖人のもとを盛ん
に訪ねていた。22歳で聖人の教えに帰依し、唯信と名
のった義治は、以後聖人のそばにあり、奥郡外森とい
う地(現在地未詳)に唯信寺を建てたという。現在地
に移ったのは1667(寛文7)年のことで、戦災等をの
りこえた親鸞聖人御影などの法宝物を蔵する。(真宗
大谷派本山ホームページより)
2005/09/18 宍戸の唯信寺、24輩の22。掲示板「
自分のうちにその心があるから他人の欠点が良くわか
る」。入口を入ると、左に鐘楼、その並びに石碑、句
仏上人の傑作の句、「もったいなや 祖師はかみこの
90年」、かみことは厚い和紙に柿渋を引いてもみや
わらげて作った衣(紙衣でかみこ)。参道50mで本
堂。句仏上人とは、明冶8年生まれ、真宗大谷派の2
3世、この句は大正初期にお旧跡参拝のおり、ここに
一泊されての自筆の句。その並びの椎の木は友部市の
天然記念物。開創は唯信房で、もとは宍戸藩主宍戸四
郎知家の3男、義治。親鸞聖人の稲田の草庵に参詣し
、22才で法名唯信をいただく。親鸞聖人の命令で奥
郡外森に1寺を構えた、これがそのお寺である。76
歳で没。唯信房の墓は本堂左にある。本堂の右は庫裏
。その右は墓所。
交通:JR水戸線の宍戸駅(友部駅の一つ西)の北20
0m。
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当寺の開基・唯信房は、唯信寺を開いた唯信房とは 別人であり、俗名を幡谷次郎信勝といった。橘村幡谷 城主であった彼は、ある夜のこと、稲田から鹿島まで 教化に赴く聖人に会うよう夢告を受け、城外に出てみ ると、念仏を称える僧の一団に出会った。これが聖人 の一行で、信勝は夜を徹して語り合い、聖人の弟子と なって唯信という法名をいただいたと伝えられる。信 勝が自領に建立したのが当寺であり、以後数度の移転 を経て現在地に寺基を定めた。境内には恵信尼公と子 息・信蓮房を連れた聖人の等身銅像がある。(真宗大 谷派本山ホームページより) 2005/09/18 24輩の23の1.唯信房の開基。入口 から50mで山門、さらに50mで本堂。山門の右は 墓所。左は蔵でその左に鐘楼、さらに左に庫裏。市内 のお寺だけに清楚で表示も少ない。 交通:50号線で大工町2信号で南へ入り、200m |
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寺伝によれば、当寺の開基である唯信房は、宇多天皇
の後胤・佐々木高重という人で、1218(建保7)年、
稲田の聖人を訪ねて帰依し、那珂郡畠谷の地に当寺を
建立し、地域の教化にあたった。その後、数度の移転
を経て現在地に移った。移転後は水戸藩の保護を受け
、藩主の休憩所ともなっていたが、何度かの火災によ
り寺宝、資料等を焼失した。現在、境内には焼失を免
れた聖徳太子像を安置した太子堂がある。(真宗大谷
派本山ホームページより)
2002/04/18 23B 覚念寺(がくねんじ)質素な造り
の素朴な寺であるが道場には相応しい。入り口の石塔
の右に聖徳太子坐像を安置している聖徳太子堂がある
。次は簡素な門、そして立派な庭、その奥に本堂、本
堂の脇と後ろには墓が一杯。
交通:朝9時自宅出発。単独行。車にする。首都高速
から常磐高速で、日立南太田ICに11時着。
すぐに6号線に出る。それから北上。すぐに大
和田町交差点を直進、茂宮川を渡り、左日立研
究所という標識を通り、右側に自動車学校の看
板を見て、次の交差点を左に入る。300mで
突き当たると、右折、すぐに左折(つまりクラ
ンク)。50m行った左側が覚念寺である。
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武藏・楢山の城主として生まれた橋本伊予守綱宗は、 平和な日々を過ごしていたが、最愛の一児を失い、世 の無常をさとり、城を弟に譲って修行者となった。諸 国を巡って常陸・鳥喰の地にたどりついた綱宗は、夢 告を受けて稲田の草庵を訪ね、親鸞聖人の教えを受け 弟子となった。唯円と名のった彼は、有縁の地・鳥喰 に本泉寺を建立し、教化に努めた。その後、1626(寛 永4)年に水戸藩主徳川頼房の命で現在地に移転し、 名を西光寺と改めた。「鬼人成仏」を伝える西光寺絵 伝を蔵する。(真宗大谷派本山ホームページより) 2002/03/19開基:唯円坊、歎異抄の唯円とも違う人ら しい。武蔵野国楢山の16万石の殿様でしたが期する ところがあって、仏門に入る。親鸞聖人とご安心につ いて問答された。本堂は新築で新しい。屋根は銅葺き で、軽いことを第一にしたようだ。元気な若い住職さ んのお話を伺いました。 交通:水郡線で常陸太田駅の一つ水戸よりの駅が谷河 原駅(無人駅)で、この西線路際。 |
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同じく唯円房を開基とする・西光寺の伝とは異なり、
当寺の開基・唯円房は俗名を鳥喰六郎兵衛尉朝業とい
い、この地の領主であった。1227(安貞1)年、親鸞
聖人の門弟となり、唯円を名のったとする。その後、
鳥喰の地に一宇を建立、これが本泉寺の始まりである
。開基・唯円房の木像や親鸞聖人寺号家督願の古文書
などを有する。(真宗大谷派本山ホームページより)
2005/09/21 24輩の24の2.野上の本泉寺。開基
は唯円房。県道181号線に石碑がある。これを入る
と入口があり、石段40で境内。右に本堂。正面に庫
裏。その奥に併設の保育所があり、その先に墓所があ
る。
交通:118号線が大宮を越して、山方町へ入るとす
ぐ左折。県道181号線だ。これを1.2km
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