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1214(建保2)年、親鸞聖人が流罪にあった越後から
常陸に入られた際、初めて草庵を結ばれたのが、小島
の草庵であるとされている。当地において妻・恵信尼
公が、聖人が観音菩薩の化身であるとの夢告を受けた
ということが、末娘覚信尼公へ宛てた手紙の中に記さ
れている。(真宗大谷派本山ホームページより)
1997/10/06にもお参りしましたが、再度行く機会があ
りました。
2005/10/02 1214親鸞聖人が始めて関東に草庵を
結ばれた。筑波山を東にいつ行っても素晴らしい長閑
なところ。
交通:タクシーでは一発。下妻の南東1km。農協の
脇。
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越後から常陸に入られた聖人は、ここ稲田に居を構え
られた。『御伝鈔』に「笠間郡稲田郷という所に隠居
したまう。幽栖を占むといえども、道俗跡をたずね」
と述べられている場所であるとされる。境内右手を上
ったところには、親鸞聖人の頂骨を納めたとされる「
聖人御廟」があり、また付近には聖人が稲田を離れら
れるとき草庵を振り返られたという「見返り橋」が残
されている。(真宗大谷派本山ホームページより)
1997/10/06下館を通っている50号線に戻り、水戸
方向東へ向かう。笠間市の入り口道路沿い北側に「稲
田の西念寺」がある。親鸞聖人が27年滞在した関東
の一番長く居住されたところで、この地形が京都のど
こそこに似て、非常に愛着をもたれたようである。南
斜面の丘陵で、六角堂などいろんなお堂が点在してい
る。これらはあるいは観光寺院になってからのものか
もしれないけど、立派なものである。坊守さんの丁寧
なご案内で境内を散歩させていただきました。結構歩
きましたね。銀杏の木などは径が二メートルもあろう
かという大木が参道にならんでおり、それは巣晴らし
雰囲気でありました。
100メートル先の田んぼの橋が「聖人見返り橋」
の石碑があり、京都に旅立たれるとき振り返って名残
を惜しまれたところだそうです。
宿坊で宿泊。西念寺の宿坊は鉄筋二階建て、下は食
事、上が宿泊。りっぱな宿坊だった。
再度のお参り、丁度報恩講の日でした。
2005/11/03 50号線の入口に稲田御坊と看板あり、
さらに石碑に縁起が表示されている。稲田の領主稲田
次郎頼重に迎えられてここに草庵を結び、60歳で京
都はお帰りになるまで住まわれた。栃木の高田から茨
城の鹿島まで教化の足を伸ばされた。京都へ行かれた
跡も、玉日姫(恵信尼)が残り、教化された。太古山
木崎の台(稲田駅の近く)に廟所がある。50号線の
入口には太鼓橋がありそれが参道へ繋がる。立派な参
道だ、大木の参道でそれは素晴らしい荘厳さだ。10
0m行くと山門、茅葺だ。右に鐘楼、左に2階建のお
堂。さらに進むと右は蔵。左には弁円改心の場所で桜
が植えられていたが、明冶の頃に焼失、古木だけ残る
。正面に本堂、なかなか立派なお堂。右に登り道あり
、親鸞聖人お頂骨堂、太子堂があると。左にはお葉付
き銀杏、大変珍しいものらしく、県指定文化財となっ
ている。本堂の左奥は庫裏で鉄筋コンクリート2階建
の宿坊につながる、私も前に宿泊したことがある。さ
らに左には庫裏への入口があり、そこから西に見渡せ
る田圃が棚田になっていて、ここを吹雪谷といい、こ
この田を庵田(いおだ)、採れた米を庵田米といい、
親鸞聖人も食したと。
交通:JR水戸線の稲田駅から50号に出る交差点が
稲田交差点である。これから50号線を西へ
500m
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稲田の草庵跡(西念寺)から東に約800m離れた地に、
恵信尼公(玉日姫)の廟所がある。恵信尼公は越後で
聖人と結婚された後、共に関東に移られ、その後聖人
が京都に戻られるまで、行動を共にされたという。聖
人の没後、恵信尼公は越後に戻られたが、京都から仕
えていた池田権之守是定という人物がこの地に恵信尼
公を葬られたといわれている。なお、恵信尼公の廟所
は、新潟県中頸城郡板倉町にもある。(真宗大谷派本
山ホームページより)
2005/11/18 縁起によると「1272に72歳で亡く
なる。九条家の家臣池田権頭(ごんのかみ)是貞は京
都から付き添い終生お仕えした。この人も親鸞聖人の
お弟子となり、是貞(ぜじょう)房浄因の法名を賜る
。子孫相続し、廟所を護り、後に稲田山(浄円寺)と
なったが、1864に太田原飛騨守の要請により、栃
木県那須郡南那須町鴻野山へ移り、法康寺を建立。
現在地は池田是貞の屋敷跡であったが、今は稲田御
坊の飛び地境内となっている」。入口の石柱に「玉日
君御廟」と、入ると奇麗な参道が続く、100mで山
門、入ると左に庫裏。正面にお堂(掲額に「恵信禅尼
」と)。さらに奥にお墓がある。なかなか立派な。
交通:稲田駅を出て左へ50mで左折、すぐに踏み切
りを越え、あと道なりに400m。
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大覚寺(だいがくじ)山伏・弁円は関白藤原忠通の曾孫
といい、修験道の大家として久慈郡塔之尾に護摩堂を
建てるなどして、徳を集めていた。弁円は、日ごとに
親鸞聖人の声望が高まるのを快く思わず、ある日、弟
子と共に板敷山の頂に護摩壇を構え、聖人を祈り殺そ
うと三日三晩待ち続けた。しかし、一向に聖人が現れ
ないため、業を煮やして稲田の聖人宅を襲うものの、
聖人に出会って害心を失い、山伏の身を捨てて門弟と
なった。当寺はその伝承を伝える寺院で、本堂は「出
内陣」という特異な形式を持つ。また、背後にそびえ
る板敷山には、弁円の護摩壇跡などの旧跡もある。(
真宗大谷派本山ホームページより)
1997/10/06 大覚寺:板敷山のふもと、弁円の寺。庭
が立派。
再度のおまいり。
2005/11/03 入口は山門で入ると、標識塔があり、「
親鸞聖人法難の遺跡」と。山門脇の表示板に、「弥陀
名号」(法然上人の筆に恵心尼さんの刺繍がほどこし
てある)と、「妙法蓮華経」は県指定有形文化財。庭
園は、回遊式で京都の桂離宮を模したもの、どの角度
からも裏がないので「裏見無しの庭」といわれる、市
指定名勝。石段12で境内となり、正面に本堂、右に
鐘楼、左に庫裏。庫裏の前が庭園だ。
交通:JR水戸線の福原駅から西へ1kmで南への道
に入る、すぐに線路を越え、道なりに3km。
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1997/10/06 真仏寺:水戸市のきたで、常磐自動車道
の北のお寺で、常磐自動車道をくぐってから急坂を登
る。こじんまりとまとまったお寺でした。また田んぼ
の中に、親鸞聖人お田植えの旧跡(石碑)がある。
再度お参り。
2005/10/30 入口に親鸞聖人お手植えの菩提樹がある
。正面に本堂、鉄筋コンクリート、本堂前に菊が4鉢
豪華に咲いていた。本堂の右は庫裏と会館。左は親鸞
聖人の銅像、その裏は開基の真仏房のお墓。庫裏の裏
は墓所。塔婆が立っているのは浄土真宗では珍しい。
交通:水戸駅から西北へ走る123号線で常磐高速道
へぶつかる手前の田野川沿いの道を西へ100
mで高速を潜り、すぐ左の登り道を30m。
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1997年のお参り ![]() 2005年のお参り ![]()
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法龍寺 如信上人御廟所として知られる。如信上人は
、親鸞聖人を祖父、善鸞を父として、京都でお生まれ
になった。成人の後、東国(現在の関東)に赴かれ、
陸奥・東山あるいは大網を本拠地にお念仏の教えを説
かれ、大きな門徒集団が形成された。これが大網門徒
である。やがて如信上人は、陸奥の上金沢(現在の茨
城県大子町)に招かれ、1300(正安2)年1月4日、66
才で亡くなられた。その地に建てられたのが法龍寺で
ある。本堂には如信上人座像を安置し、境内には如信
上人の墓所・如信上人お手植えの榧・覚如上人お手植
えの銀杏が現存する。(真宗大谷派本山ホームページ
より)
1997/10/06 如心上人お廟所、無住の寺になっていた
が、今本堂を建設中で、ほとんだ完成しており、ぴか
ぴか。庭は昔のままの山門、碑、銀杏とかやの大木、
が残っている。
再度のお参り
2005/11/08 入口に「如信上人御廟所」とある。掲示
板によると、「如信上人終焉の地」大子町指定史跡、
と。縁起によると、如信上人は親鸞聖人のお孫さんで
京都に生まれ、親鸞聖人が京都に行かれてから親鸞聖
人の教えを頂いて勉強された。若くして東国へ下り、
福島県南部の東山、また大網を中心に布教活動をなさ
れた。毎冬、京都へ上り、親鸞聖人の命日法要を7日
間勤められ、報恩講の原型を創られた。1299に大
子町上金沢の乗念房の草庵に招かれたが、翌1300
年1月4日にこの地で亡くなられた。66歳。本堂に
は、本尊の阿弥陀如来立像、親鸞聖人の絵像、如信上
人坐像(大子町師弟有形文化財)像高53.5cm)
、木造聖徳太子立像(大子町指定有形文化財、像高7
6.5cm、太子16歳の孝養像、江戸時代の作)が
安置されている。さらに境内のかや、大子町天延記念
物、幹周り6,8m、樹高24m、樹齢710年。そ
の前にある銀杏、幹周り11.1m、樹高32.5m
、樹齢690年。山門は切妻造、銅葺き、1707の
建立。入口から境内が見えるが、参道は小川に沿って
、左にあり、70mで右に山門、山門の正面に本堂、
本堂の前にかや、そして左に銀杏、その西の袂に如信
上人のお墓がある。無人のようで管理は、真宗大谷派
如信上人御廟所管理運営委員会となっている。境内や
墓石、石碑などは整備され、休憩用のアズマヤも出来
ているし、なかなかよく管理されているようにお見受
けしました。有難いことです。
交通:常陸大子駅から西へ伸びる491号線を8km
、道路沿い。
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「歎異抄」の著者として有名な唯円大徳は、1240(
仁治1)年、常陸・河和田の地に道場を開いた。のち
、この道場は少し離れた竹ノ内という所に移転して泉
渓寺と称するようになり、1690(元禄3)年、旧河和
田城跡の一角に移されて現在に至っている。聖人真筆
の十字名号などを寺宝として蔵する他、近在には当初
の道場があったといわれる「唯円の道場池」がある。
B唯円の道場池(ゆいえんのどうじょういけ)
報佛寺から約700メートル離れた場所に、唯円房が
最初に開いた道場があったといわれるところがあり、
「唯円の道場池」の石碑が建っている。当初この地に
あった道場が、唯円房から十代の後、道場池より北方
の竹ノ内に移って泉渓寺と称し、さらに1690(元禄3
)年、報佛寺と改称して、現在の地に移ったとされる
。(真宗大谷派本山ホームページより)
1997/10/07唯円開基の寺。河和田住職の静かなお話
に聞き入る。親鸞聖人ご真筆の十字名号のお話に感激
。山門から長い参道を通って正面に萱葺きの古風な本
堂がある。水戸市内であるのに、昔の趣をそのまま残
していて有難い。
再度お参り
2005/10/30 入口の山門前には「河和田城跡」という
石柱があり、表示板には報仏寺の縁起が書いてある。
勿論山門の表札も報仏寺とある。入ると右に鐘楼、左
に親鸞聖人銅像、さらに行くと左は墓所。参道の正面
に本堂、立派な本堂だ。前回にお参りしたときには茅
葺き屋根の古めかしい本堂であったが、すっかり修復
されて、境内を含めて素晴らしく手入れが行き届いて
いる、見違えた。
交通:50号線のバイパスの河和田町南信号を北へ5
00m。
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1997/10/07 如信上人創建、大谷派から別れて単立と
なる。本堂での住職の話も熱気がこもっていたし、境
内のありようもなかなか活発、なにか気力が感じられ
る。山門を入ると広い境内に本堂、開基堂、鐘楼、な
ど伝統と新しい息吹をうまく混在させているお寺であ
りました。
再度のお参り
2005/10/07 開基は如信上人(親鸞聖人の孫)。12
62、福島県白河郡古殿町に草庵を構えた。これが大
網の願入寺の元である。如信上人は、親鸞聖人没後、
毎年京都に上り、報恩講の端緒を切り開いた。入口は
山門で、境内は広く、参道70mで本堂、なかなか壮
大なお堂だ。本尊は阿弥陀如来立像、県指定有形文化
財、鎌倉時代の作。本堂の左に庫裏。境内の右は、ま
ず巨大な梵鐘(本邦で五番目の大きさ)があり、鉄骨
の建築物の中に安置されている。驚いた。その奥には
開基堂。これはいまは博物館になっているが、元は石
岡市の照光寺の本堂(240年前の建立)を平成8年
に移築復元したもの。現在は如信上人開基堂となって
いる。如信上人の御影〈木造)、蓮如上人の書簡、黄
門さんの遺品などが展示されているらしい。
交通:大洗町の北にあり、ひたちなか市から那珂川に
かかる海門橋を渡ってそのまま100mで看板
がある。
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親鸞聖人が1214(建保2)年、越後から常陸に入られ た後、1216(建保4)年にこの地に足を運ばれ、ここ を常陸奥郡の布教の中心地とされたという。聖人はこ の地で法然上人の3回忌法要を勤められたといい、こ れを真宗興行の法要として、大山の草庵は開宗宣言の 地と言われている。(真宗大谷派本山ホームページよ り) 2008/09/26 123号線に看板あり、桂中学入口のと ころだし、良くわかる。 |
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鎌倉時代、三浦荒次郎義忠という武士がいた。義忠は 和田義盛の乱で落人となり、仏道修行を志した。ある 日義忠は、下妻の地で一夜を明かした際に、近くの小 島にいる僧侶を訪ねよという夢告を受けた。小島にあ った草庵を訪れた義忠は、そこで親鸞聖人と出会い、 門弟になったと伝えられている。明空という法名を賜 った義忠が建てた道場が当寺であり、開創以来寺基を 移すことなく現在に至っている。寺宝には、開基や聖 徳太子の木像の他、山号(西木山)の由来となった栗 の木の化石などがある。(真宗大谷派本山ホームペー ジより) 2005/10/02 「木造聖徳太子立像」、県指定有形文化 財、檜材、寄せ木作り、像高66cm、摂政太子像で これは珍しい、南北朝時代の作。門前に親鸞聖人お手 植えの菩提樹、市指定天然記念物、樹高2,7m、幹 周り1,5m、樹齢700年以上、親鸞聖人が小島を 去るときに植樹したもの。山門を入って、境内。右に 開基明空房お手植えのヒイラギ、市指定天然記念物、 樹高5,8m、幹周り2,9m、樹齢700年以上。 明空房はひいらぎが好きで多く植えたので、ヒイラギ 道場と言われた。「われもまた心に送る罪科を名にあ らわして植るる一本、明空。ヒイラギの並びに鐘楼、 その周囲と本堂の裏にいたるあたり一帯は墓所。正面 に本堂、左に庫裏。 交通:下妻駅の西200m。 |
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関東の名族・結城氏の祖である結城七郎朝光は、治承 年間(1177〜1180)に結城城を築き、勢力をふるって いた。この地域には法然門下の念仏者である武士が多 く住み、朝光も念仏者であった。朝光は親鸞聖人が常 陸に入られるや帰依し、菩提寺を築いて門弟の真仏房 を招き、開基とした。開基・真仏房や玉日姫の木像を はじめ結城朝光肖像画などの寺宝を有する。また、茨 城百景にも選ばれている境内から、1キロほど離れた 地には、玉日姫の墓所がある。(真宗大谷派本山のホ ームページより)次のS11参照。 2005/10/02 入口から参道100mで二条門、市指定 有形文化財、20代信覚が京都から婿養子で入るとき に1626、京都から移築したもの、二条家から賜っ たので二条門という。参道50mで正面に墓所、参道 は右折、第二山門があり、50mで本堂、規模壮大な 立派な本堂だが、現在修復中で緑の被いで覆われてい た。本堂の左は墓所、右は庫裏。結城氏の祖である、 結城七郎朝光が親鸞聖人に帰依し、菩提寺を建立、親 鸞聖人の高弟真仏房を招き、開基とした。真仏は常陸 の豪族平国香の血を引く真壁城主平春時の出家後の名 である。寺宝として、恵心僧都(源信)の往生要集の 仮名交じり本(親鸞聖人自筆)があり、県指定有形文 化財。 交通:結城駅から北へ500m。 |
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玉日姫は関白九条兼実の娘として生まれ、自ら剃髪し
恵信尼と号し、親鸞聖人の妻になって、布教を助けた
。やがて親鸞聖人が京都へ戻られても、本人は結城に
とどまり、1254に越後で亡くなった。「なせ越後
で亡くなったのに、ここにお墓があるのか」というこ
とは単純に考えますが、江戸時代に講で訪れる人のた
めに作られたものだそうです。インタネット記事より
2005/10/02 入口は石柱があり、参道が100m。そ
の先に立派な廟所になっていて、墓所は丁寧に扱われ
ている。
なお、稲田の西念寺から東へ800mのところにも
恵信尼さんの廟所があります。詳しくは別項に。
交通:タクシー一発。市役所の東北250m、静かな
畑の中。
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1234(文暦1)年、親鸞聖人は関東での生活を終え
られ、帰洛の途につかれた。途中、箱根山の難所を越
えて箱根権現にさしかかられた際、権現の夢告をうけ
た社人らによって温かく迎えられ、三日間この地に留
まられたという。その際、聖人は自作の御影と十字名
号を箱根権現に授与されたといい、その伝承を今に伝
えるのが当寺である。現在も芦ノ湖を望む地にあり、
明治の廃仏毀釈の際に箱根権現から移された夢告の阿
弥陀如来像を蔵する。付近には、関東から付き添って
きた性信房と聖人とが、腰掛けて別れを惜しんだとい
う「別れの石」や、箱根神社(権現跡)などの旧跡が
点在している。(真宗大谷派本山ホームページより)
2005/10/21 入口には「箱根学校発祥の地」という石
碑がある、ここの住職さんが1818に寺子屋を開い
た。明冶5年1872に学制にようる箱根学校が開か
れ引き継がれた、と。入口は山門で、入ると左に親鸞
聖人の銅像。右に石段18で境内。正面に本堂、本堂
の左に庫裏。本堂の裏は墓所。案内の標識もないので
淋しい。親鸞聖人の箱根の別れについても旧跡として
表示されていても良いように思った、
交通:箱根芦ノ湖の湖畔で、関所跡を過ぎて、すぐの
関所南信号があり、これを左折して50mで右
折すると寺の前に出る。
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当寺は教名房実念の開基で、笠間城主であった教名
房の父が親鸞聖人に帰依し、笠間の地に聖人を招き、
草庵を結んだのが起源であると伝える。東関東におけ
る最初の草庵であることから、「お草鞋ぬきの聖地」
といわれ、親鸞聖人の御消息(東本願寺蔵)にある「
かさまの念仏者」居住の地であるともいわれる。県指
定文化財である本尊をはじめ、「お草鞋ぬき御満足の
御影」といわれる聖人自筆の御影などがある。(真宗
大谷派本山ホームページより)
2005/10/30 入口は立派な石柱だ、脇の石には24輩
と刻んである。参道を50mで石段10、山門。脇の
表示柱に「木造阿弥陀如来立像』県指定有形文化財と
。参道の正面に本堂。右に庫裏。左は、裏まで墓所。
交通:JR笠間駅を出て東へ500mで355号線と
なる。これを北へ500m、電柱の表示があり
、東へ400m、南へ50m。
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有史以前からの伝承を持ち、古くから常陸国一の宮と
して尊崇を受けてきた鹿島神宮には、親鸞聖人がしば
しば訪れられたと伝えられる。鹿島神宮は当時、他の
神社と同様に神仏混交で、境内にはいわゆる「神宮寺
」があり、仏教の聖典も豊富に納められていた。稲田
に草庵を結ばれた聖人は、鹿島神宮に向かう道すがら
に念仏の教えを説かれ、多くの人々が帰依されたと伝
えられる。鉾田町の無量寿(壽)寺を開いた順信房な
どはその代表格であろう。(真宗大谷派本山ホームペ
ージより)
鹿島神宮
2005/10/19 入口は鳥居、大きな石作り。次は楼門、
2階建、朱塗り、1634、重要文化財指定。さらに
参道を50m進むと、右に写真のような本殿がある。
そのまま参道を直進すると掲示板があり、曰く、奥の
院は300m先で1605建立、国宝、重要文化財。
鹿園、120m先で、30頭の神鹿が柵の中で飼育さ
れている、と。
親鸞聖人御旧跡:参道の左側で鹿園の先、茶店の並び
に掲示板による説明がある。いわく、「鹿園を中心と
した一角の土堤内は、元鹿島山金蓮院神宮寺跡、降魔
山護国院跡にして、昔親鸞聖人が訪問されたと伝えら
れ、『親鸞聖人のお経石』と称する小石に経文の文字
を書いたものが出土したことがある」と。これだけの
痕跡ではあるが、800年の歴史を伝えていた。有難
いこと。報恩感謝感激。
交通:JR鹿島線と鹿島臨海鉄道の鹿島神宮駅から駅
前を100m南へ行くと、左に門前町が続き2
00mで入口の大鳥居だ。なおこの駅へは、東
京駅八重洲口から高速バスで鹿島行きが20分
間隔で出ており、バスは鹿島神宮駅が終点であ
った。大変便利なバスである。
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